見出し画像

読書にある多様性/新しい執筆様式

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/11/09 第526号

○「はじめに」

Beckさんと行ったYouTubeライブのアーカイブがアップされております。

タイトルが雑ですね(笑)。ライフハックの10年を振り返りつつ、12月に開催される予定の東京ライフハック研究会をどんなテーマにしたらいいのかを話し合いました。

おそらくポッドキャスト版も後から配信されるので、そちらでもお聴き頂くことができるかと思います。

〜〜〜大著読了〜〜〜

とうとう『独学大全』の通読を終えました。書評記事は以下です。

この本は、通読を目的とはしていないと思いますが、私は頭から読んでいく派なので、じっくりじわじわと読み進めた次第です。おかげでめちゃくちゃ時間がかかりました。

本書は、知的生産の技術としても、情報を扱う技術としても極めて重要な一冊となることでしょう。それにしても、よくこの企画案が通ったなと感心した次第です。良い仕事をされたと思います。

〜〜〜『ツイッター哲学』〜〜〜

最近読了した本で言うと、千葉雅也さんの『ツイッター哲学』も面白い本でした。

哲学者のTwitterであり、Twitterの哲学でもある。そんな内容です。普段見慣れたタイムラインから摘出され、縦書きの本の形で並べられるとき、そこにある言葉たちは「別のしかた」で私たちに迫ってきます。

〜〜〜その機能、必要ですか〜〜〜

すでに一定数使われているツールがあり、それに対抗して新しいツールを提供しようという場合、「高機能化」はわかりやすい差別化戦略となります。しかも、高単価を担保してくれるすばらしい施策です。

しかしながら、その機能がユーザーにとって必要なのかどうかはわかりません。最大の問題は、機能は多ければ多いほどよい、とは単純に言えないことです。むしろ、不要な機能が増えると使いづらさも増えます。

とは言え、単純に、新奇性への好みから新しい機能付与がユーザーに喜ばれる傾向は間違いなくあるので、高機能化戦略がなくなることはないのでしょう。

結果、誰にとって特なのかわからない機能が次々と実装され、使いにくいツールができあがる結果となります。南無三。

〜〜〜「哲学的」な問いが持つ力〜〜〜

「哲学的な問い」の定義は難しいですが、 ここではそれを「根源に立ち返る問い」だとしておきましょう。つまり、「そもそも、hogehogeとは何か?」を考える(あるいは考えさせる)問いです。

生きるとは何か。自分とは何か。罪とは何か。正義とは何か。社会とは何か。仕事とは何か。

すべて哲学的な問いに分類できます。

こうした問いが持つのは、対象について「自分なりの答え」を導く駆動力です。歴史上の哲学者や思想家が出した答えをそのまま口にするのではなく、彼ら・彼女らの思索に触れることを通して、「では、私はどうだろうか」と考えるきっかけを促すのがそうした問いの力であるのでしょう。

もしこの社会が安定的で、誰にとっても均一な「生」が準備されているのなら、そんな問いについて考えるのは時間の無駄です。誰かの答えをコピペして生きていくのが一番効率的でしょう。

しかし、生が変化と多様性の中にあるとき、自分で考え、自分なりの答えを(暫定的にでも)出せないと、うまく適応できません。生きづらさを過剰にひきずったままとなります。

言葉(概念)が私たちにとって道具であるのなら、思想(概念)もまた私たちの道具たりえます。考えるための道具を得ること。それが哲学の意義であるとするならば、それ以上に「役立つこと」などそうそう見つからないでしょう。

〜〜〜飽き性の自覚〜〜〜

メルマガ10周年を迎えた、という話を以前したのであまり信じてもらえないかもしれませんが、私はかなり飽き性です。少なくとも、そういう自覚があります。

たしかにブログやメルマガなどずっと続けていることはありますが、そういう例を除けば読書遍歴や趣味の中身などはかなりの頻度で移り変わっています。作業記録を見返しても、あるときはずっとプログラミングをして、別のあるときは家の整理に明け暮れるなど、まったく一定していません。

また、ブログやメルマガにしても、継続はしているものの、その中身はかなり変わっています。連載内容や文章の書き方など、時期によって大きく違うのです。むしろ、そうした変化を許容しているからこそ、全体として続けられている側面があるのかもしれません。飽き性ながらでも継続するための秘訣、というわけです。

なんにせよ、「自分は飽き性である」という自覚があるからこそ、その飽きについて手を打てることは間違いないでしょう。つまり、「自分は飽き性であるが、それなりの工夫をすれば継続可能なことが生まれてくる余地はある」という自己認識があるわけです。

もし、飽き性の自覚が0%なら、そもそも手を打とうとは思いませんし、飽き性であってそれは100%変えようがないと思うなら、やっぱり手を打とうとは思いません。

「そうであるが、そうでない部分もある」という非100%的認知がここでは役立ちます。

〜〜〜100%の呪い〜〜〜

以下のようなツイートをしたところ、

以下のようなリプライを頂きました。

一つ上の話にも通じることですが、こういう「100%の呪い」は至る所に潜んでいると感じます。特に、物事を単純化して捉えるとよく発生します。

そのような単純化から、より現実的な認識にシフトすることは、「程度の問題への移行」と言えるでしょう。

いかにしてその移行が可能なのか。最近それについてよく考えています。

〜〜〜今週見つけた本〜〜〜

今週見つけた本を三冊紹介します。

『新版 歴史の終わり〔上〕: 歴史の「終点」に立つ最後の人間 (単行本)』(フランシス・フクヤマ)

新版です。旧版は1992年に発売されております。アメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマの著作で、翻訳は『知的生活の方法』で有名な渡部昇一さんです。ちなみに「歴史の終わり」とはSF的なカタストロフィーではなく、人類はさまざまな歴史の変転をくぐり抜けたけども、現状のシステムが「完成品」である(これ以上新しい歴史が生まれることはない)という意味合いです。

『世界の「住所」の物語:通りに刻まれた起源・政治・人種・階層の歴史』(ディアドラ・マスク)

こういう本が病的に好きです。「住所はどのように作られたのか、人は住所に何を読み取るのか。住所のない古代ローマの移動方法から人の居住地の特定による近代国家のはじまり、デジタル式住所が変革を起こそうとしている現在まで、都市と人間の秘められた物語を描く」。いや〜、面白そうですよね。

『《時間》のかたち』(伊藤徹)

時間とは何か。哲学的な問いですね。寺山修司や小津安二郎、是枝裕和や柳宗悦―、そして夏目漱石の作品を横断しながら、そうした作品で展開されてる時間のイメージを探究するようです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。

Q. 自分自身について何%くらい知っている自覚がありますか?

では、メルマガ本編をスタートしましょう。

画像1

○「読書にある多様性」 #知的生産の技術

本を読むことは多様です。

ナカムラクニオさんの『NHK出版 学びのきほん 本の世界をめぐる冒険』で明らかにされているように、現在の黙読に至るまでもさまざまな読みの形がありましたし、同じ黙読でもそこで行われている情報処理は人それぞれことなるでしょう。

さらに、本自体が多様という点もあります。同じ人でも、絵本と小説とビジネス書と哲学書で行われる「読む」はきっと異なるはずです。

ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』では、そもそもその「読む」とはどういうことか、読み終えるとは何を意味するのかがラディカルに問い直された上で、一冊の本を頭から終わりまで通読することよりも、「本」という文化(複数形としての本)に触れることの重要性を説いています。

モーティマー・アドラーとC.V.ドーレンの『本を読む本』や読書猿さんの『独学大全』でも通読以外のさまざまな読み方が紹介されており、それは本のネットワークを辿るような読書だと言えるでしょう。

編集工学研究所の『探究型読書』では、もっと踏み込んで、本を主役とするのではなく、それを読んで何かを考える自分(たち)を主役に据え、ものを考える技術として読書を位置づけています。

一方、『積読こそが完全な読書術である』では、私という一人の人間が一冊の本を読むかどうかは(本にとっては)重要なことではなく、むしろ本は読み継がれていく、語り継がれていくことこそが本義であるといった議論が提出されています。面白い視点です。


本は多様です。だから、本を読むこともまた多様であってしかるべきです。

だから、『正しい本の読み方』(橋爪大三郎)というタイトルを見かけると鼻で笑いたくなります。「はっ、何言ってんの?」と。

一方で、そうしたタイトルの本が書かれ、またピエール・バイヤールがわざわざ「本を読む」という行為を解体しているように、私たちの中にはある通念が存在しています。ちゃんとした本の読み方があるのではないか、という通念です。あるいは、そうしたものがあって欲しいという希望なのかもしれません。

実際、本の読み方は多様であっても、一つひとつの本を読んでいるとき、その読み方は「正しい」と感じられるでしょう(あるいは「間違っている」とは感じられないでしょう)。何かしらの規範性が水面下でうごめいているのが感じられます。

また、他の人が自分が知っている分野について言及しているとき、あまりにもとんちんかんなことを言っているのを耳にすると、「まずはhogehogeを読んだ方がいいんじゃないか」と思うこともあります。これも、一種の規範性です。なぜなら、そのhogehogeを読んだら、自分と同じ理解に至という前提が隠れているからです。それは読み方の強制です。

つまり、私たちの読書観は、「読書は多様であるべきだ」と「こう読むのが正しい」の緊張感の中で揺れ動いています。

『バーナード嬢曰く。』シリーズは、そこにある緊張感を面白おかしく描いている名作です。本書に登場する本の接し方には、他者に介入するものや、他者には絶対に共有できないものなど、さまざまなものが含まれています。

そのどれもが審級的に上位に立つことはなく、ただ「本を楽しめればいいね」という結論だけが合意に至ります。まさにその通りです。

本は本として、ただ誰かに読まれるのを待ち、読み手は自分が読みたい本を(たとえそれがどのような理由であれ)読む。もしその結果が楽しいものであれば、たいへんヨロシイ。基本的にはそれだけでしょう。

しかし、本にまつわる面白さは、その「基本的な部分」の上に肉付けされるさまざまな個人的な要素なのだとも思います。

話題だから本を読んでもいいし、ひねくれ者だから皆が読まない本を読んでもいい。見栄を張るために立派な本を読んでもいいし、課題図書だからと頑張って本を読んでもいい。

本を読むことの多様性を肯定するとは、こうした本読みもまた肯定することを意味します。真面目ならインテリなら忌避すべき行いでしょうが、それはあまりに偏狭というものです。

本を買うだけ買って本棚の肥しにしたっていいですし、書店で本棚を散策するだけ散策して何も買わずに帰ってもいいのです。少しでも本との交わりがあったのならば、それは広義の「読書」と言えます。

本というものが、「別の世界」を見せるための装置だとするならば、そうした「読書」だって立派に役割を果たしています。

本は決してせかしてきません。いつまでも私たちを待っていてくれます。だから焦らずに、しかるべきときが来るのを待つのでもいいのです。そのときが、永遠にやってこなくても構いません。たとえそうであっても、本は本として存在し続けています。

逆に、手に取って読んで面白かったのならば、積極的に再読し、必要とあれば「推し」ていくのがよいでしょう。そうした活動によって、当初よりも長くその本が読み継がれるようになるかもしれません。

それもまた、一つの「本を読む」活動だと個人的には思います。

ここから先は

8,595字 / 2画像 / 1ファイル

¥ 180

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?