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「ユトリ」の話。

東京のような都市は脳が化けた空間だ、と考えると面白い。

養老孟子さんの本で読んで、いろいろ気づかされることが多かった。
健康を測る正規分布というものがあって、これは血圧にしろ血糖値にしろコレステロール値にしろ、とにかく平均的なボリューム層が正常値とされる。
けれども、頭脳を測る偏差値となるとそうはいかない。ボリューム層は凡庸とされ、平均を振り切った高偏差値に価値が置かれる。
とくに日本でいえば東京のような場所は、そういった高偏差値を持つヒトたちがリードする都市であると考えることができる。

そういう都市に生きる人々は、ごく当たり前のように“うまく頭を回転させて”立ち回っていかないと、生きてゆかれない。
サーキットのコースを例にするとわかりやすいのだけれど、仮に東京というコースは時速100kmで走行することが求められる。120kmを出せる優秀な出走者はビュンビュン先へ駆てゆくけれども、最高速度が80kmとか50kmしか出ない出走者もいるわけで、そうなると自然に周回遅れやコース脱線という事態が起きる。鬱や引きこもりや依存症など、社会の歪みと呼ばれるものがそれにあたるのではないだろうか。

【合目的】というコトバは、「( 形動 )ある目的をもち、それにかなっているさま。※三省堂 大辞林」という意味で、まさに都市での生活や振る舞いは、この合目的であることが優先される。
私は一応、企業に属して広告だとかマーケティングの仕事に従事しているけれど、きわめてサボり症で、平日でも本を読んだり銭湯へ行ったりこうして雑文を綴っていたりする。
もし上司や誰かにこのことが露見して「何をしているんだ」と叱られたとき、「いや、これは仕事のためのアウトプットです」とでも言い訳すれば合目的行動になるのかもしれないが、実際は何のためにやっているのだか自分でも回答できない。つまり、合目的であることが求められる都市という枠組みのなかでは、私はほとんど意味をなさない存在と言って差し支えないのである。(自分で言ってて少し悲しくなるが…)

しかしながら無駄を排除し、合目的であることを是として社会は発展し、成熟を迎えつつある。その代償として先にも書いたような社会の歪みが生じたり、最近では過労による自殺問題なども取り沙汰された。
近年「働き方改革」という号令のもと、余暇というユトリが推奨されはじめた。それは結構なことだとは思うが、なぜそういう風潮になったかのコンテクストははっきり示すべきだと思う。かつて教育にもユトリが持ち込まれたけれど、なぜそうしかのかという肝心な“理由”が抜け落ちていたので、失策となり方針転換となった。
ユトリを享受する以上、その受け皿となる生活スタイルを提示する必要があると感じる。そうでないと、ただ単に経済が停滞して、また元の状態に戻るのではないだろうか。

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