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「戦争マラリア」の話。

正月気分も抜けきらない1月の半ばに八重山を旅してきた。

石垣島を拠点に竹富島に連泊して、のんびりと南の風に吹かれ、土地の酒や肴を飲み食いして、気ままに過ごした。養生するにはこの上ない楽園だと改めて感じた。
旅の最終日、竹富島から石垣島への帰りのフェリーで少し待ち時間ができたので、島の郷土史館に立ち寄ってみた。
ゆがふ館という施設で、フェリー乗り場からすぐの場所にある。
郷土に関する蔵書がいくつかあって、適当に一冊を手に取って立ち読みした。その本には八重山の戦時下のことが書かれていて、これが印象的だった。

「沖縄の戦争」といえば本島における決戦の惨劇が知られるけれど、私を含めその頃の八重山の事情を知る人は多くはないのではなかろうか。
地上作戦の無かった八重山では、沖縄本島と位相を異にする悲劇があった。何度もこの地に来ているくせに、恥ずかしながら初めて知ることとなった。
とくに心を打たれたのは波照間島の悲劇である。

ある日、とつぜん島民に疎開命令が出され、マラリアで既に廃村となった西表島の南風見田地区に強制的に転居をさせられた。そこは掘っ立て小屋でボウフラの湧く濁り水を頼りに生きるような劣悪な生活環境だった。
当然ながらみるみるマラリア罹患者は増え、犠牲者は後を絶たなかった。マラリアになるとまず悪寒が走り、その後は何日も高熱が続く。熱を下げるためには頭から水をかぶるくらいの対処しかできなかった(その水が蒸発するくらい高い熱が出たとも)。そして、ついには衰弱して死に至るというおそろしい風土病だ。
やがて終戦を迎え生き残った者は波照間島に復員するが、軍部が豚・牛・山羊といった家畜をのきなみ接収して去った土地は荒廃していた。
マラリア禍はなおも収まらず、最終的には全島民の1/3にあたる約500人が命を落としたという。来る日も来る日も死者を埋葬し、ついには墓がいっぱいになってしまい浜辺に穴を掘っては埋め…と、この惨状の様相は筆舌に難い。

碧い空と海に目を奪われるばかりに、そんなに遠くはない過去にこの八重山でそのような惨事があったことをまったく知らずにいた。島々を歩くと高齢の島民が屈託のない笑顔で話しかけてくれることがあるが、心に刻まれた哀しみの記憶は消えることはない筈だ。
当然ながら島民の高齢化は進み、島々には日本本土からの流入者が増え、国内外からの観光客も後を絶たない。楽園のイメージとかけ離れた哀しみの記憶は、薄まり続ける一方だろう。
政治的な解釈はしない。ただ、そういう歴史があったことを残しておきたくて、記してみた。

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