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川根本町2|年老いた列車にゆられて

紀行エッセイ「漂々」
2021.9 - 2022.12 都内広告代理店に勤めるサラリーマン1年生が、日本のローカルをめぐる旅のエッセイ。生活の拠点としては住まいのサブスクサービス
ADDressを活用しています。なお、このエッセイは20代半ばの一人間の精神史のスケッチを第一義として書かれています。あらかじめご了承ください。

JR東海道本線を金谷駅で降りる。一月二日の正午過ぎ。やわらかい日差しと、小さな男の子を連れた三人家族。世界のあくびのような、弛緩した幸せな時間だ。

プラットフォーム脇の改札口からもうひとつの乗り場へと向かう。乗車券を買おうと、かっちりした制服の駅員に行き先を告げる。「青部駅まで行きたいんですけども」駅員は職務への忠誠心にすき間なくコーティングされた声で乗車賃を告げる。「千七百円になります」僕は紙幣一枚と硬貨三枚を手渡す。支払いは現金のみなのだ。そして青部駅までの切符を受けとる。現金で切符! しかも切符には乗車証明のための入鋏がされるときた。カチッ。僕はおもわずニヤリとなる。こうして僕は時代をひとつかふたつ遡る。

改札口を抜けると、幅の狭い単式のプラットフォームに着く。そこには褪せた緑色の車両が一台停まっていた。大井川鐡道。静岡の山奥へと駆ける鉄道である。車体はところどころ錆びており、ところどころ凹んでもいる。鉄道博物館に展示されていそうな、歴戦の車両だ。どこかの私鉄を引退した車両らしい。そいつが退屈そうに発車時刻を待っている。

車内に入ると、いっそう時代は遡る。シートは座面がすり減っていて、その赤色が褪せてしまっている。床は塗装が禿げている。窓ガラスだってくすんでいるところが目立つ。この車両が生きてきた歴史が煙のようにもわっと立ちこめていて、眼がしょぼしょぼとする。そのせいか、眼に入るものすべてが低彩度で、現実味をやや欠いて見える。でも僕には、そのやわらかい視界がここちよい。

発車時刻が迫る。乗客は例の三人家族と、同じような三人家族があと何組か。あれ、三人家族専用車両なのかしらん。なんにせよ、小さな男の子が何人かいるおかげで、この引退車両もやわらかさを失わずにいられるんだろう。ほら、孫が訪ねてきたときの独り身の爺さんみたいにさ。そしてしばらくして、孫を抱えた爺さんは今日も重い腰をあげて動きはじめる。ガッタンゴットン、ヨッコラショ。


これは余談だけど、小さな男の子連れが多いワケは発車からしばらくして判明した。そのワケは対向車線を全速力でやってきた。遠目でも分かるが、凄まじい笑顔をしている。心から笑ったことのない人が笑顔の教本をつくったとしたら巻頭に模範笑顔として図解しそうな笑顔である。あまりに整っていて、不気味なのだ。人はそういう風には笑わない。模範笑顔を張りつけたそいつは、頭から煙を噴き上げ、大声を張り上げ、近づいてくる。小さな男の子たちは喜び勇んで、窓から顔を突き出す。そして口々に叫ぶ。「トーマス!」。そして鮮やかな水色の車体が車窓の外を通り過ぎていく。

というわけで、そのワケとはトーマスである。大井川鉄道はトーマスを模した機関車がたしか一日に二両走るのだ。彼らもそれに乗りに来たのだろう。機関車サイズの模範笑顔が山奥から現れシュッシュッポッポと近づいてくる様は、実に壮観です。


そんな小イベントも経ながら、僕らの年老いた列車は進む。くねる川に沿いながら、しだいに山奥にもぐりこんでいく。刈り込まれた茶畑がいたるところで連なっている。それらをまどろんだ陽差しが包みこんでいる。

その陽差しは車内へと染みこんでくる。それが唯一の明かりだった。昼間だからか電灯は点いていなかった。自然の明るみと暗がりが溶けあい、乗客の輪郭がぼんやりとうかびあがる。それはまるで影絵のようで、ちょっとした幻想的な光景だった。


列車にゆられておよそ一時間。暗いトンネルを抜けて、僕は目的地の青部駅へ着いた。幅十メートルほどのうらぶれた無人駅だった。

降りたのは僕だけだった。僕が降りると、列車は実にそっけなく扉を閉め、あっというまに遠ざかっていった。列車の音が聞こえなくなると、冬の静けさだけが残った。

その場所は全方位を山に囲まれていた。山の斜面はつんとした杉の木々に覆われている。太陽が山の背に隠れ、杉はいっそう緑を深くする。音はない。僕は湖の底に沈んでいるような気分になった。

そこにあるのは、世界の辺境的静けさだった。僕はしばらく無人のプラットフォームに立ち尽くして、景色を眺めた。そして、息をゆっくりと吸って、息をゆっくりと吐いた。

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