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ノンデュアリティを理解したのになぜ幸せを求めるのですか?(否定感無し)

あるがまま、ただあるように在るだけだというのに、なぜまだその事実を否定して幸せなるものを求め続けるというのでしょうか?
否定感なしで説明してみます。

それは、まだ何かできると思うからです。
または、幸せである方が気持ちがいいと感じているからです。

それはそうです。確かにそうです。全く否定できません。

しかし、だからと言い、それを今求める理由にしていない、ということも知るといいと思います。

手を伸ばせば届く範囲にあるのであれば手を伸ばして機会を得ることは普通で、手を伸ばして幸せを教授すればいいのですけど、

どうあがいても無駄な時ほど強く望む幸せは焦燥感を募らせて大事な部分にトラウマを残すだけになりかねません。

また、そういうつらい摩擦体験をご自分に強要すると、他の方へもそうすることをいとわなくなりそうではあります。本当にそうしたいのでしょうか?

幸せというものは、環境と準備が整えばいくらでも即時に受けられるような簡単なステップのことです。もちろん無料です。今すぐできます。

準備というのも単純に深呼吸をして地に足をつけて待つだけでいいと思います。環境が整備されている必要はありますが。環境とは簡単に書くと、おなかが減っていない、温度が快適な範囲にある、眠すぎない、のども乾いていない、トイレも別にいかないでいい、心に余裕がある、誰かに用事を頼まれない、など等のことです。

もし、必要な環境がなくて、気を散らされるような過干渉な場を選んでいまいる場合には、もっとも簡単な幸せの状態を感知するのは確かに難しいと思います。

曲芸のような困難な場面を選んでおいて、その場を克服しつつ自分の最高の望みを同時に果たそうとする行為自体はすごいなあと感心しますが、なぜわざわざハイスペックな要求をされる最難関システムを攻略したいとするのでしょうか?

高速バスの上でマシュマロキャッチをするかのような芸です。そのようなことをしたいのは個人的な嗜好であるならば何も言いません。

幸せとは、もっと単純なものだと思います。少なくともぼくの場合にはです。

少なくともノンデュアリティを学んだことがある、またはこれから学びたいと思うのであれば、そういう意見も今後の参考にしてほしいと感じています。

どうもノンデュアリティを学んだあとについても幸せが何かが分からずに、誰かに決めてほしいと望んでいるように感じています。

幸せというものは、もっと単純でシンプルなことでいいですよ。

正解は無いと思うのと、正解が無いのであれば、全部何をしようが幸せだともいえます。

バスの上でマシュマロキャッチも幸せなんだからいいでしょ、という理屈もわかりますが、じゃあ失敗中も全部幸せですね。

要は、自分ルールを敷いてそのレールに沿って黄金のニンジンをゲットするというのは、ここで論じている幸せの定義から外れているということがみそです。

ノンデュアリティでいうところの幸せとは、デュアリティで言うところの比較を通してみた自分に都合の良い方という意味での幸せとは無関係であるということです。

ぼくは適温の中で散歩するだけで死ぬほど幸せを感じています人生最良の日だなあと毎回思うぐらいには完ぺきに幸せです。その時その範囲だけです。(ここが最重要!)

散歩はぼくが好きだからですね。

逆に、気温が適温じゃない日はとてもつらい日に感じます。
本当に言葉通り、あるがままでしかない自然なとらえ方なので温度がつらい時も普通にありますが、深刻には全くとらえないということです。しかし、普通にイライラもしますし、思考がオーバードライブして攻撃的な思考が出たりもします。が、言ってしまえばそれだけで終わりです。気温が適温になれば嘘のように忘れます。

なので幸せを求めるという行為自体が起こってきません。いつもそれとあるからともいえますが、求めが止んでいるから幸せという言い方もできます。

あるものがあり、無いものは絶対にありません。これがきもです。

あとは、好きなこと、特に好きすぎて勝手に幸せに感じてしまうことをできる環境を増やす、回数を増やす、止めない、邪魔しない、そういう普段の姿勢や在り方も重要です。幸せを享受する準備のことですね。準備万端で両手両足を広げて待ち構えていて現れたらがっちり捕まえて絞りつくす。骨までしゃぶりつくせ!これが決め手です。

二本のレールから選ぶ二軸的な比較の上で成り立つ幸せとは別に、一軸的にただ一方向にまっすぐある幸せというものが存在するという表現でもいいと思います。自分にとってどうか?という一言に表されます。

自分の内面が今どんな状態にあるか?だけの一軸の指標です。

もしかすれば、ぼくは幸せを感じ取りやすい質(たち)なのかもとふと思いました。幸せを追い求める経験が無かったかもしれないぐらいには、デフォルトで幸せ状態だったのかもしれません。これは自分ではわかりにくいことですが。

もっとも単純でシンプルな幸せの種から、もっとも強烈な人生最良の日に感じる幸せまで幅広く全部が幸せなのだから、特定の幸せに固執せずに、得られた機会に満足すればいいだけの簡単なお仕事です。

ノンデュアリティで言うところの幸せの正体(招待)について、参考になれば幸いです。

幸せの定義と価値観を押し付けられることではないので、自分でそれがどれかを認める必要があります。

自分自身で在るということが重要なことなので、自分自身で在ることに幸せを感じ尽くせられればあとは何でも構わないです。ノンデュアリティに固執する必要も全くないです。

ただ今はデュアリティの見え方だと幸せが何かよくわかっていないだけならば、ノンデュアリティでの幸せも試してみて気づきにしたらいいんじゃない?というぐらいの気持ちです。


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