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虚無を回避する方法と虚無の解決方法

ノンデュアリティを学び始めると虚無になる場合がある。その仕組みと解決方法があるのでそれをシェアします。

「私はいない」にまつわる悩み


分離の意識、教えられたことに納得するエゴの意識上では、自分にできることというのはなにかすごいこと、使命、役割みたいなだれかに任命されるようなこととか、誰かがしていて羨ましく感じることを自分もしてみようとしてそれができないと落ち込むという、こういったトラウマがある。
それらはすべてエゴ特有の空想ベースの範囲内でのおままごとの話だという感じ。実際のところを見れていない。

自分にできることはある。というか、自分にできることしかしていない。今鼻で呼吸していると感じられることがあるのであれば、それはあなたにしかできなくて他の誰かがしているのを見ているわけではない。いま耳でなにか聞こえたのであれば、それはその時あなたにしかできないことであったのはまぎれもなく事実。だけど、それの何がすごいことなの?とエゴ(=自我)は感じる。価値役割等の大義が欲しい場合など、この程度のことだと不満であるという話。

ノンデュアリティでよく言われている「私はいない」というのは、デュアリティの立場でそのまま受け取ると虚無になる。
自分にできることがないという間違いに発展する。
空想ベースではなくて事実ベースに切り替えて捉えられないと自暴自棄になる。

正しい意味での「自分にできることが何もない」というのは、個としてみるのをやめているということ。不在性のこと。不在性の立場からすれば、だれかさんという個はいませんので個が何かをしているという発想が湧いてこないというただそれだけのこと。

これを難しくさせている理由としては4つ挙げられる。

  1. ネオアドヴァイタの意見を真に受けすぎている。

  2. 常に四六時中自分がいないことこそが「私はいない」だと定義づけている。

  3. 原点には私がいないというのに、どれが原点かまだつかめていない。

  4. そもそもデュアリティベースでノンデュアリティの話を理解/納得しようとしている。

この4コンボがあればどうしても間違えるというのは全くそのとおり。あなたは正しい反応を示している生徒だということ。自分にできることがないという間違った結論に導いたあなたは100%正しい。オールライト。

間違っているかもしれないということは指摘された。では、どこがどう間違っているのだろう。

1) ネオアドヴァイタというのは徹頭徹尾ノンデュアリティの気づきの立場から動かないプランなので、その立場を取り続けたいのかどうか、自分にしっくり来るのかどうかはそれぞれのことなので、自分で決められる。

2) 私というものは私がいるんだという思いがあるときにだけ正しく正常にあって機能してくれていて、その他のときには引っ込んでしゃしゃり出てこないのでいないと言うことが事実だよという感じ。呼んだら来てくれる出前と同じ。呼んでもいないのに四六時中出前の人に付きまとわれたら迷惑でしょうというレベルのこと。呼んでいないときにはいないのが正常。これは変更不可の事実

3) a)常に私というなにかがあるのではなくて、不要なときには無いよねということと、b)原点には私というものは無いよという、この2つの意味で私はいないと言っているという感じ。

4) そもそもノンデュアリティの立場はデュアリティの立場と見え方が異なるので、同じ位置から見たければ同じ位置に立つ必要がある。
まずはじめにデュアリティの立場を取るというルールをもっと緩めてノンデュアリティの世界線に触れてみることが大切なこと。ノンデュアリティの立場に完全に一致しなければノンデュアリティがなにを言っているのかは理解できないので、今はデュアリティの立場にいるということを自分にお知らせしてくれているというだけのことなので悩みすぎる必要もないよということ。順繰りわかるよ。焦らないで大丈夫。わからなくても実は順調、後からわかってくる。安心しておまかせでOK。

「意味がない」「無意味」にまつわる悩み


ノンデュアリティでたまに言われる「意味がない」「無意味」という意味を捉え違いすると、虚無になる場合がある。
自分が頑張ってきたという思いが強いほど、それが崩れ去ったと関連付けをして悲愴を感じ、虚無になる。脱力する。立ち上がれなくなる。
今の現実に悩んでいたり、抑圧していたりすると、小さな希望の芽が摘み取られ、虚無(意味付けエラー)になりそのまま死にたくなる。自己解決できないまたは自己解決に時間の要する難問に手も足も出せなくなり投げ出す。脱落する。
それらの根本的な仕組みは、既存の概念Aを、今教えられた概念Bに変更したということ。それで概念Bが自分の期待していたものではないのでがっかりしたという構造。
意味付けという方がより適切だとも感じる。意味付けAを意味付けBに置き換えたときに論理破綻した。それでこのテーマでは今回、虚無というエラー症状がたまたま出たという感じ。
これは空想ベースであるデュアリティの立場だからできること。
ノンデュアリティスピーカーである事実ベースの人が、その現在の立場から見えている世界感をシェアするときに、空想ベースに与える影響を無考慮で発言をした場合に、
空想ベースの人には事実ベースの人に在るような基本合意がないので、ある言葉に対して自由な連想で独自に意味を組み立てる、という構造に対する知性がないと、聞き手にエラーが発生して虚無の症状を発生させていることに気が付かないのでフォローをしない場合がある。
簡単に言えば、空想ベースの立場では意味付けの自由がある。事実ベースの立場では意味付けに自由がない。(ざっくり言えば)
もし、事実ベースの人が使う「無意味」という言葉をなんの配慮もなく使った場合、空想ベースの立場にいる人からしてみると、三者三様の独自の意味付けを行う。その中で恐れベースの意味付けをしたときに自己否定が強まる場合がある。
つまり、悪く捉える。良い悪いの二極概念を使う。なので、良い悪いの価値判断をしている前提でフォローをしないと、空想Aが悪い空想Bに変わるだけとなる。
これがノンデュアリティスピーカーに備えられる素養です。
平たく言えば、発信する側で虚無を回避する方法は、「空想ベースに歩み寄りなさい」ということ。かなりユニークなロマンあふれた独自な意味付けをしていることがある。というか絶対にそう。それを見越してフォローなり何なりをするのが良いとぼくは思っている。
なので、今無意味という概念に悩んでおられる場合には、そのまま悩み続けても自力では気づくのに時間がかかっているだけなので、一度悩むようなそんな概念を信仰するのをやめてみる、取り外してみることがおすすめ。一旦初期化してみる。その後、「ノンデュアリティの効果効能」という章から再スタートしてみるのが良いと思う。自力で悩み続けるのであれば自力をやめてみる、正解を教えてくれているところに実際に行ってみる。正解に直に触れる。先を焦りすぎるのをやめるてみる。

虚無の役割


虚無になることに今のぼくの立場から言える意味を与えるとすれば以下のようになる。
解決方法の前に、なぜそれを経験するのかの謎を答えると、もっとも論理性が高いのはその経験をしたかったからで、した後のタームでその経験が活かせるからだということ。これを概念の継承という。
意味付けエラーを経験することで、意味付けという行為の矛盾を獲得し、体感し、会得することで、正規ルートでの学習カリキュラムを進行している真っ最中であるということ。
死にたいと思うほどの強い絶望感はぼくは何度も経験したけど、カリキュラムを超える段になり、その知性が集まってきてより大きな枠組みを認めることができたとかんじている。
つまり、パズルのピースのような知性が集まった後、元々あった大きな枠組みに新人として参入する権利が在るのだという認識を自分の内側から感じられたというかんじ。(振り返るとという意味で)
感動は概念ではなくて経験するジャンル。それと同じように虚無も経験で学ぶジャンル。本を100冊呼んでも虚無を実際に経験したとは言えない。
無理に頑張って虚無を回避しようとしなくてもいい。経験として虚無とはどんな感じなのかを経験するのもありだという話。
解決方法がわからないので独自に頑張って回答を探したけど、解決に2年かかった虚無という現象はすべてのカリキュラムを全うするために2年かけたのかもしれないという話。そのおかげで、今ここにいるとも思えるから不思議。
何でもそうだけど、虚無もそれを体験するビフォーアフターでは捉え方が変わる。すべての情報が手に入ればそれは得難い経験になる。ぼくの中にはその情報がある。
なんでもそうだけど、虚無になることも良い悪いでは言えないと言うか、今見える範囲では悪く捉えて改善してほしいと願ってさらに思考エラーのループになっているということ。数年たってみればその経験を活かせるということがわかる。
まとめれば、
虚無になるとその後の経験として活用できるので実際になってみるのもありだとわかっていればOK。
虚無になるのはいいけど、そこから抜け出たい場合には、意味付けを外すというのを本当にやってみるという感じ。後付けの意味をすべて一旦白紙にする。実際にしてみる。意味付けをしないという感覚を得る。常に虚無になっているわけではなくて、虚無を思い出したときにだけ虚無的になっているだけだと気がつければ早そう。
一言で言えば、抵抗せずに感じて味わいつつ生きれば、そのバトンをゲットできる。勇敢な経験のチャンスの最中だと言うこと。そういうチャンスはそうそうないかも。


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