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トラウマ臨床から見えてくる世界観

マニアなセラピストたちのおかしな生態

先日、久しぶりの、
ローカルな研究会に参加させてもらいました。

ポリベーガル理論とパーツ心理学(トラウマケアの専門のお話)、
というテーマで、大学の先生が話題提供してくださるということで、
何年かぶりの会でしたが、勇気を出して参加申込みをしたのです。

トラウマケアの技法って、業界ではたくさんありまして、
ある程度コンセンサスのある定番のものもあります。

一部のマニアのセラピストの集まりになっているところがあって。
大きな研修などに参加すると、全国から、見覚えのある先生や、
以前共に学んだ同期生とかに会えて、情報交換するのが、とても楽しい。
セラピーオタクの仲間同士が共有する、不思議な一体感がある。

そして、たいていセラピスト仲間が、
顔を合わせた時に話すことと言えば、

あの話題の技法はもう学びましたかっ?
あの治療法は、どんな感じなんですか??
どんなふうに使っていますかっ!!

と、食い入るように、話題に集まって来るのです。

もっと体験したい。
最新の治療法を学びたい、
もっと楽にできる方法があるんじゃないか。

子どものころ集めた、カードとかおもちゃとか、
なにかのコレクションを見せ合うみたいに、
みんな子どものように、目をランランとさせています。

冒険者たちが、旅の疲れを休めに来た街で、新しい装備を手に入れたり、
情報収集したりする、酒場みたいな雰囲気でもあります。

こう思ってみると、おかしなセラピストさんたちです(笑)

自然の営みを自然に見れなくなった動物

トラウマ臨床は、支援者にとっても、
ともすれば、暗く、重く、悲惨で、
無力感みたいな気分漂うジャンルになりがちでした。

昔ながらのイメージは、肝っ玉の太い意欲的な支援者が、ムードメーカーになって、チームを盛り上げて、なんとか抱えている感じ。

確かに、暴力や事故の被害者、という視点で見ると、
不幸な境遇の、弱くて可愛そうな人への支援。。

そんな決めつけた考えはやめたいと、頭でわかっちゃいても、
勝手に、重くて暗いムードがどこからともなく湧いてくるのです。
その漂う空気感が、また当事者を苦しめてしまう。

勝手にそんな反応をしてしまう僕たちは、
自分の中に、何の記憶を見てしまうのでしょうか。

つらくて、かわいそうな人、、、
というのは、本当でしょうか。
特殊な体験をした、特殊な人なのでしょうか。

実際は、例えば同じ被災者体験をしても、全員がPTSDを発症しないし、
というか、むしろPTSDにならない人のほうが圧倒的に多い。
古くから多くの疫学研究から、はっきり出ているエビデンスです。

ということは、むしろ「そんなひどい目にあったら、誰でもこころ病むだろう」という人の見かたは(当事者を思いやる眼差しとしては必要ですが、)
全体に適応するのは、思い込み、認知バイアスであるということです。

逆に、そんなむごい目にあっているのに、
こころの病気にもならない可能性が、そんなにも多いのか、
という、人間が潜在しているスペックに、驚かされます。

僕たちはニュースやエピソードを聴いた時に、
勝手に、そんなことがあったなら、不幸や悲劇に違いない!
と決めつけてレッテルを貼ってしまっているのです。

シンデレラの物語でも、新大陸発見の冒険でも、
ハッピーに描くのも、悲劇に演出するのも、
悲惨なニュースとして報道するのも、
勇敢な歴史として記述するのも、
人間が勝手にしていることです。

そもそも、人間万事塞翁が馬というように、
その人生体験が、吉か凶かなんて、
浅はかな人間の認識では、つかめないし、
人生のなかで、歴史の中でも、変わっていく。

出来事は、そもそも、ニュートラルな自然の営みに過ぎない、
エゴに邪魔されない動物たちなら、そのように思うでしょう。

でも、そう思えないのも、また人だから。
進化した大脳を持っている人間だからですね。

ポリベーガル理論という世界観

ポリベーガル理論では、
トラウマは出来事の中ではなくて、
神経系の中にあると考えます。

つまり、出来事に襲われた被害者ストーリーとしてではなく、
動物反応としての神経生理学現象の視点から、
トラウマ現象を見るというニュートラルさがあります。

人間の演出する物語ではなく、
野生動物でも起こりうる、神経生理学的な見かた。
、、、それも、また、一つの解釈に過ぎませんが。

でも、文化の中に潜在的にはらんでいる重苦しいレッテルや、
社会的集合意識のつくるバイアスの影響からは、
ある程度自由になれます。

それは人間らしい気持ちや出来事を、軽んじることではないです。
むしろ、理性的な見かたができると、出来事をきちんと大切にし、気持ちを感じられるようになります。

なぜなら、体験は、そこから少し出て、神経系が落ち着いたころに、
ようやく、語れたり、考えたり、戦えたり、逃げたり、
体験として対象化できるようになるものだからです。

逆に、この体験を忘れたくない、許したくない、と思えば思うほど、逆説的に、体験の森の中に入り込んで、体験が見えなくなってしまう。

問題を解消するのは、問題に取り組むより、
問題から離れるほうが先なのと、同じように。

勉強会に参加させてもらって、
そんなトラウマ臨床の工夫と楽しみを思い出し、
また、臨床への勇気をもらえた機会になったのでした。






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