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てんとう虫と蝶と私



3月22日金曜日。5歳の息子、レイが高熱を出した。季節外れの雪が降る朝のことだった。私は息子の小さな手と手を繋いでリビングのソファに座り、窓の外に降り頻る雪を眺めたのをよく覚えている。「また雪だねぇ、休もうね」なんつって。それから5日間、私の予想を反して息子はなかなか回復せず寝込んだままだった。ろくに口を効かず食事もできず高熱に耐えどんどん痩せていった。普段はラジオよりも良く喋るお茶目な彼だからこそ、その黙ったままうつらうつらとした瞳、真っ赤な頬、悪夢にうなされる姿にあらゆる不安が過った。そして母である私は心配でたまらなくて毎晩彼が寝付くまで頭を撫でたり、背中をさすったり、足を揉んだり、ポカリを飲ませて、鼻を噛んで、りんごを剥いて、どうにか解熱を祈った。
そうして6日後。
待ちに待った彼の解熱と引き換えに今度は私が高熱となったのだ。それにそれから3日後、旦那さんが続けて高熱となり倒れた。そうつまり我が家には「インフルエンザ」という悪の魔物が襲来していたってわけ。ただそれだけなんだけど。
文字にするとあまりにもちっぽけなこの「インフルエンザ」という魔物について。
よく知っているようで、知らない人だっているだろう?頼むから「あぁ、インフルエンザだったのね。」なんて冷たいことを言わないでおくれ。その悪事は想像以上に私達から沢山の楽しみを奪って行った。そして引き換えに本当に大切なことを教えてくれたように思う。
そうだ、この悪名高き「インフルエンザ」が私に教えてくれた意外なものについて、今回は記しておくよ。

それは、たったひとつ。

一週間と引きこもっている私と世界の間にあった「軽薄さ」。あらゆる世界と「電波でしか繋がっていない」という薄さだ。えっ?「軽薄」なんて言うと良くないように聞こえるけど、ここは良いとか悪いとかじゃなくて、事実だったんだ。そしてその「軽薄さ」について今回はあえて良い面だけ受け取ろうと思う。

というのも一週間ほど、頭が割れるように痛くてスマホを開くことをできずにいた私は、あれよあれよとSNSから姿を消すことになった。それは電波人間の私にとって数年ぶりのことだった。(エッセイも二度ほどお休みしたのは初めてだった)アプリの扉を開かない暮らしは実に無責任のようにも感じたけど、私はそこでなんと「自由」を感じたんだ。世間から疎外された寂しさもあったが、誰にも見られていない澄んだ空気も感じた。孤独感があったけど、自然と心はSNSを遠目に見られるようになったんだ。それがどう言うことかわかるかい?


それが良いとか悪いとかじゃなく、やはり「事実」だった。本当はそのくらいラフなところで生きていいってことさ


なにしろ、足取りは軽い方がいいし。SNSに見せかけの自分を何枚も被ることはかえって前進を阻むでしょ?「こんなの本当の私じゃない!」とか、「いいねが来ないからやめとこう」とか、「どうして私は人気がないのかしら?」なんて。この時代にはもう、つらそうにSNSと歩く人を多く見かける。つまんないようって心が泣いてる人もいる。そんなSNSとの歩幅や、呼吸の仕方のようなものを私も教えてもらったんだ。
もっと自分の呼吸を深く味わって、ゆっくり歩けるような。デジタルが当たり前の世界に浸かってはいけなかったということ。

難しい顔をして、背景の分からないやり取りに心を奪われてはいけないし、名前の知らない相手に嫉妬して競い合うもんじゃない。会ったことのない人に負けた気になるもんじゃないし、生活を誰かに決めてもらっちゃいけない。未来の感動を画面の中で終わらせチャもったいないし、会いたい人にはスマホを置いて肌で触れて。レンズは瞳じゃないんだって、画面は肌色じゃないんだって。マナーモードは静かじゃないんだって。スマホは人間じゃない。スマホはただの機械だって。アプリの扉を閉めてからそんな風にデジタルを遠くに感じ、いまある「軽薄さ」がどんなに自然なことかって知ったんだ。

さらには窓を開け久しぶりに太陽の下へ踏み出した時。それはそれは驚くほど生暖かい風が頬を撫でて。そこにはちゃんと春があって、庭の雑草はのびのびと、てんとう虫や蝶々なんかは嬉しそうにしていたんだ。私がだらしなく引きこもっていた間にも自然はこうして動いていて、自然こそいつも本当の意味で私を生かしていたのだと言うこと。私はそこの、てんとう虫や蝶々なんかと同じように春を喜ぶただの生き物だということを思い出させてくれたんだ。もっと「ただ生きてみること」に喜んでいいと。そんな感じです。

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