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【連載小説】夢で見た #10

白石ケン至

 そもそもダライ・ラマに初めて謁見したのは満行後、世界各地の聖地を巡る旅に出た時だった。亡命政府が用意した三十分の謁見時間を大幅に超え二人の話は熱を帯びた。二時間ほどして周囲から止められた際、法王からメル友になりましょうと伝えられアドレスを渡され冗談じゃなかったんだと驚いたのだった。何度か不定期にやり取りを続け、法王の来日時には必ず時間を共にしてきた。気さくでおしゃべり好きな彼の人柄はその背負った過去から未来に至る苦を伴った問題の数々を時に忘れさせる魅力に満ちたものであった。

 メールを閉じ目元を揉みながら石川は先月から出演する情報番組で取り上げられコメントを何度も求められているこの法王が伝えたガンガーの奇跡と呼ばれる報道について考えていた。返還の儀において三人の日本人が帰国していると週刊誌がスクープし返還の儀から帰還の儀についての詳細なインタビューを記事にしたことで日本でもインド政府が極秘に神との交流の計画を進めていると各メディアが伝え「ガンガーの奇跡」というキーワードは広まっていた。

 インド政府は沈黙を続けていたが、結果として世界中の人々の興味を掻き立てることに繋がっていた。そしてそれは法王が言葉にしていた通り彼女の望みである、多くの人間の帰還への意識を生み出していた。

 こだま号は静岡駅に停車していた。平日ということもあり、旅行客は少ないようだ。進行方向のスライドドアが開き五、六歳くらいの女の子を連れた母親が乗車してきた。女の子が石川の顔を見て立ち止まりテレビのお坊さんだ!と笑顔で叫んだ。母親が娘を叱り石川にすみませんと謝る。石川は大丈夫ですよと伝え、女の子によくわかったねと優しく話しかけた。テレビでは袈裟姿だが普段着は地味なカジュアルな装いで滅多に気づかれないからだ。昨日おひるねでみたんだ、と女の子は言い車内を後方へ進んでいった。

 また夢か。夢とは一体なんだろうか。勿論科学的にその仕組みなどは解明されているのだろうが、夢が人にもたらす影響を思い石川はあの過酷だった千日回峰行の日々を思い返していた。堂入りと呼ばれる苦行の際、断眠の中、真言を唱え続けていると数々の存在が立ち現れてきた。現実には睡眠と覚醒の間にあるのだろう。それについては時々講演会の最後に行う質問の時間において興味本位もあるのだろう、峰行の最中に魑魅魍魎と遭遇したかと聞かれることがある。人は不確かで不可思議な存在に惹かれるものだからだろう、いつも石川は闇の中から現れた異形の存在について説明をする。必ず最後には半分は夢の中だったのでしょうが。と付け加えることを忘れずに。ただ感覚として間違いなく日常の睡眠時の夢とは違うその濃密さと実体を伴ったような夢の質とでも言えよう違いをはっきりと感じていたことは間違いない。そしてその感覚は法王のメールの中にもあったガンガーの夢の濃密さと同じ類のものだった。

 窓越しに地方の田舎というべき風景が流れている。石川は東北地方の今は過疎化し廃村寸前と聞く山間の村に生まれた。当時は今と違い村民の数も多く、祭りや地域の体育祭などが大々的に開かれるほどの賑やかさだった。父親は村の小学校の理科の教師をしていた。小中学校の天文クラブの顧問を兼任し近所から先生と慕われる自慢の父は彼を裏山へ季節ごとに連れて行き村に一本しか存在していないであろう天体望遠鏡で天体観測を体験させてくれた。天文の歴史にも詳しく、古代の人々が如何にして天体から営みの知恵を得ていたか世界各所に残る天体遺跡への憧れと共に語ってくれたのだった。その優しい父との記憶とは裏腹に家庭内は地獄そのものだった。石川が物心ついた時から家の中には母の怒号と悪態が渦巻いていた。その矛先は常に父だった。今となってみれば分かる。母は常に恐れ怯え苦しんでいたのだ。自身の苦しみを癒すのは自身以外の何者かを常に卑屈に批判し、叩き貶めていなくてはいられなかったのだろう。父の揚げ足を取り些細なことを正論で叩く。その日出会ったあらゆる人物を出来事を蔑んだ口調で、時に憐れみ自身がそれらよりも上に在るのだと言わんばかりだった。村中から嫌われていた母だったが、父だけは彼女を責めることはなかった。常に俯き頷きその言葉の矛先が逸れるのを待っていた。

 石川が十四歳のことだった。母親の不倫が発覚した。不倫相手の妻が証拠を掴み家に押しかけた。相手は父親の天文クラブに所属する石川の同級生の父親だった。

 あれほどの正論で父を叩いていた者が不倫というあからさまな人としての倫理観の欠如を伴った行為で父を裏切ったことに中学生の石川は何か正体のわからない恐怖を母に感じた。そして何も言えず、何も出来ることはなかった。ただただ無力でどうしたら良いのか分からず、彼は学校に通えなくなった。自宅に引きこもる日々であっても当初おとなしかった母は暫くすると変わらず父に対し、私に不倫をさせたお前が悪いと責め立てる日々に戻っていった。変わらずに休まず仕事に出勤する父は明らかに弱っていくのが目に見えていた。時々独り言のような恨み節を呟くことが増え、今だったらうつ病という診断が下されるような状態だったのだろう。それでも石川に出来ることは無かった。大人の事情に首を突っ込むことへの非力を思い無力感に苛まれる日々だった。

 石川がほとんど通えなかった中学を卒業する数日前のことだった。父が裏山の頂の松の木で首を括って死んでいるのが見つかった。石川は自分の心というものが死んでいくことを思った。消えてしまいたい。父の死を涙を流して悲しむ母の姿にも恐怖した。なぜ父は死ななくてはならなかったのか、父に出来てなぜ自分は死ぬことが出来ないのか。そんなことばかりを思う日々を自宅に篭り彼が十八歳を迎え暫くした早朝、母は姿を眩ました。近所から話が伝わり村内の親類が石川に声を掛けたのは直ぐだった。親類たちは母の悪口を散々と彼に浴びせた。それは彼らにとっての復讐でもあり石川への同情でもあったのだろう。しかし彼にとってはなぜあの時助けてくれなかったのかという思いにつながるばかりであり、ただ心をより閉ざすことに繋がっただけであった。

村内での貧しき一人の日々を過ごしていた石川は時折父に出会った。自宅で、村の小道で、夏に冬に。何かを訴えかけるような悲しい表情で夢にも現れる父を振り払うように彼は家を村を出た。何も持っていないのだ。大切な物も事も何も無いのだ。ほぼ手ぶらでひたすらに歩き、ヒッチハイクをしながら西へ向かい辿り着いたのは大阪だった。ホームレスをしながら日雇いの仕事をしながらなんとか命を繋ぐような日々、この無縁の都会の高速道の下でまだ死んでいないと確認しながらの生活にも父は訪れて来た。あまりにも実体がそこに在るような姿で。

 それは真冬の夜のことだった。寝床から少し離れた暗闇でネクタイ姿の中年男性が見るからに不良少年に絡まれていた。酔っ払った少年たちがどうでもいいような理由で男を小突いている姿を遠巻きに眺めていた石川は気づくとその小僧たちと殴り合っていた。命などどうでも良いと思っている不潔な男との喧嘩は小僧共の撤退を誘い呆気なく終わりを告げた。殴られていた中年の男は石川に土下座をし、感謝の言葉を残し彼の手元に五万円を渡し走り去っていった。石川は何かに追われるかのように走り出した。今この感情を忘れる前にしておかなくてはならないことに急かされていた。具体的な思いとなぜという疑問の板挟みのような感覚が全身を走り抜けている。身体が動いていた。

→ #11 へ続きます。

 

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