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【連載小説】夢で見た #09

白石ケン至

第二章 大阿闍梨

 名古屋発のこだま号の車内は思っていたよりも混み合っていた。事務方の加奈ちゃんに指定席を取っておいてもらって良かったと今になって感謝しながらお土産はいつもより奮発しておこうと石川直純(ちょくじゅん)は考えていた。京都の寺を早朝に出立し、東京の事務所に向かうことが月の半分ほどまでになっていることを余りよく思っていない者も宗派を問わず多いと石川は理解していたし正直言って自身でも最近のテレビ出演などの仕事については少しずつ減らしていく必要があると自戒めいた思いもあるのだ。後方に流れる車窓の景色を見つめ遠くの山々に茶畑の畝が目立つことでここが掛川駅を過ぎた辺りだと見当がついた。浜名湖の記憶がないのだから名古屋を出てしばらくして寝入ってしまったということだ。ペットボトルの冷たい静岡茶を一口含みながら、誰かに叱られたような夢を見たが、半年ほど前からのあの類の夢ではないことを思いなぜか少しほっとしていた。

 そうだ、加奈ちゃんに夢の中でも俺は叱られていたのだった。夢の中でもと言うのはこの出張が始まった頃のことだった、天台宗の阿闍梨として二回目の千日回峰行と呼ばれる回峰行を達成した石川はその荒行にNHKの取材班が密着し放送されたこと、そしてそのメディア向きの飄々とし肩肘張らない喋りが受け時の人となっていた。ラジオの人生相談から情報番組で『直純(ちょくじゅん)さんの人生歩み道』なるコーナーを持ち、コメンテーターまで勤めていた。当初は自著の宣伝のためならばと引き受けた彼だったが、やがて多くの講演の依頼が届き始め全国の自身の説法を聞いてくださる方の元へ赴くことが喜びとなっていったのだった。その大阿闍梨ブーム初期の頃だった。彼は講演の仕事で地方に赴く際、予定の日に現地につけば良いという自分勝手な思いだけでふらりと気分次第の日時に自坊を出立していたのだった。その日の気分で歩き、バスに乗り、鈍行列車で現地に赴くことが楽しみだったのだ。新幹線や空路でパッと現地に向かうよりも石川は目にする見知らぬ人々の様子や地方の言葉に触れる機会の多くなる道程を選んでいた。

 何度か出張を重ねた頃のことだった。境内の庭を掃いてい石川に加奈ちゃんが声を掛けた。少し緊張したような面持ちで彼の前に現れた加奈ちゃんはすみませんと頭を下げてから言った。和尚、実はお願いがありまして。最近都内を始めとして全国への出張が増えていると思うのですが、せめて新幹線などの特急列車に乗車頂けませんか?和尚は確かに大阿闍梨です。そのお言葉を多くの人々が全国で待っておられます。その方々にとっての待ち侘びた記念すべき日を成功させるために大変な準備が先方の会場では手弁当で進められているんです。担当をさせていただいている私の元へも何日も前から勿論当日まで何度も大阿闍梨は何時の便で到着するのですかと問い合わせの連絡が入ります。その度に何日の何時に出立し、明日の何時に到着するのか分からないのです。なんて回答をしなければならないのです。多くの方が多忙な日常の中で和尚の講演会を成功させるために尽力されています。もう少し考えてみてください。

 少し興奮した彼女は緊張も相待って少し目が潤んでいた。そしてこう言った。

 お殿様の出遊ではないのですから。

 少し面くらいながらも正直に石川は納得し謝った。それ以降彼は歩きから鈍行列車での赴きは辞めた。少し残念な気もしたが、彼女のいう通りなのだと納得したという意思表示でもあったのだ。必ず指定席で特急列車にて現地へ赴けば到着時刻も事前に伝えられるということで。ただし、新幹線でもこだま号は譲らなかった。子どもじみた我が儘だと思われたかもしれないが。今回ものぞみ号のチケットを依頼するかどうするかの迷いの中でこだまのチケットをお願いします。とおずおずと依頼したのだった。

 車窓には茶畑を始め豊かな緑が映っている。こだま号は大井川を渡り静岡駅に向かっている。途中の掛川駅で乗車した出張旅の地味なスーツ姿の勤め人たちが喋る静岡弁だろうか、のんびりした言い回しが耳に入ってくる。こうして人々の生活を身近に感じながらの移動が彼には貴重な時間だったのだ。

 車内で加奈ちゃんの夢を見たのはあの時のお説教が余程残っているのだろうと思いながら彼は一睡の原因となったと思われる昨晩の夜更かしのことを思い出していた。昨晩は「メル友」からの返信を読み耽ってしまったのだった。鞄の中から外出時に持ち歩くタブレット端末と資料、眼鏡ケースを取り出しお茶を一口飲みながら、やれやれこうして老いを実感するのだなと思いながらケースから老眼鏡を取り出す。
 端末の充電がされているのを確認しながら便利になるということは多くを失うことでもあるのだな。なんてことを考えつつあらためて届いたメールを読み返し始めた。


 拝啓マスター阿闍梨 石川直純 様

 マスターなんて言い回しジェダイのようですな。スターウォーズはお好きかな。私はマスター・ヨーダのような強く優しさと厳しさを兼ね備えた存在でありたいとよく思うのですよ。そろそろ貴方からの便りが届く頃だと恋人からの手紙を待つかのような気持ちでおりました。

 まあ冗談はさておき、こちらダラムサラは厳しい寒さが続く季節が続いています。日本も寒い季節でしょう。暖かくなったら再訪しあなたと食事でもしたいと思っています。二〇一八年に日本を訪れた際、ランチで美味しいうどんを頂いたのが貴方と最後に会った時と言いたいところですが、率直に言いましょう。半年前から何度もお会いしてますね。夢の中で。貴方の手紙に書かれていたように私もその頃からあの大河を見下ろす岸で貴方と共に過ごす濃密な夢を時折みているのです。あの濃密な夢、訳あって私は幼い頃からの付き合いなのですよ。正確にはあの夢はある存在から届けられています。我々チベット仏教のラマたちは代々その存在からの受け取り役を密かに担ってきたのです。そして約二十年前、インド政府から彼女からの光の言葉の翻訳を依頼されたのです。帰還についての言葉は我々も彼女から受け取っていました。近くインド側から翻訳を依頼されることもね。

 驚きましたか、詳しくは添付した資料をご覧になってください。「返還の儀」「帰還の儀」「ガンガー(彼女)」物事には自身の気付けない理由が遠い何処かに存在していますね。この夢が貴方にも届けられ私と共有されていることにもその理由があるはずです。

 最近この夢が広く人々に伝播しています。何らかの彼女の思いがあるのだと思っていましたが、どうやら彼女の帰還には多くの人々の賛同の意識のエネルギーが必要とされるようなのです。つまりは大勢のお見送りの気持ちが必要なのだということのようです。人々を返還し世界中に帰還させたことはつまりは彼女なりの帰還の情報の拡散の目的の意味があるようなのです。放っておいても彼らが経験を語り噂は広まるということですな。人間を解っているのかいないのか、どうにも理解できかねる困ったお方ですな。
近いうちに帰還の儀に向け貴方の手が必要になります。近いうちにお会いしましょう。楽しみにしています。

 テンジン・ギャッツォ 
 ダライ・ラマ一四世


→ #10 へ続きます。


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