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公共を遊ぶ

次期学習指導要領にて、2022年度から高校のカリキュラムの中に「公共」という科目が必須化されることが検討されているそうだ。

「現代社会との諸課題の解決に向けて、自立するとともに他者と協働して、公共的な空間を作る主体として選択・判断の基準を身に付け、考察する」

ということが狙いとして謳われているのだけれど、果たしてこれはどういう意味なのだろうか。

最近閉鎖されたある公共施設の跡地活用の検討に関わっていて、改めて「公共」ということについて考えてみた。

文科省で、「公共」という概念を改めて高校の必須科目として検討しなければならなくなった要因や背景として考えられるのは、

・巨額の財政赤字を抱え、少子高齢化の加速する日本において、公を担う主体として、国や行政だけでは中長期的に限界が見え始めていること。

・これまで公が抱えてきたサービスの一部を民間に渡す、指定管理やPFI等の動きも広まる中、今後はその領域がさらに広がる可能性があること。

・介護保険制度に代表される通り、”公的サービス”として、税金を払っている住民に対して、行政がその見返りとして対応するという在り方にひずみが現れてきていること。

といったことではないだろうか。

ただこのような見立ては、住民側からすると、本来行政がやるべきはずだった業務を、税金が足りなくなるので、それを肩代わりしてください。そのために必要な考え方を高校の内から学んでおいて下さい。

と言っているようにも見えてしまう。

文科省内で実際どのような考えで議論が組み立てられているのか、内実は分からない。その是非はともかくとして、個人的には、「公共」というものを市民レベルで深く理解するためには、学校で学ぶよりも、実地で経験できる機会をより増やしていくことに力を入れた方がいいと思っている。

例えば、今私が検討会に参加している公共施設の利活用についても、専門家だけではなく、広く一般市民が関われる、参加しやすい仕組みづくりが考えられるとよい。

私が今関わっているプロジェクトでは、形上は、市民に声をかけて、参加してもらおうという恰好にはなっているのだけれど、実際、市民側の反応は薄いようだ。

これは広報の仕方にも問題があるのかもしれないが、やはり市民として関わりたいと思える内容になっているのか。関わった結果、それが次にどのように繋がっていくのかが見えづらい、といったことが要因として考えられる。

「公共」というものをもう少しライトに考えられたらいいなと思う。

そもそも「公共」という言葉は、名前からして”イカつい”ので、とっつきにくいイメージもある。

例えば近くにある公園をもっと面白く、楽しくできないのか。図書館や博物館をワクワクできるような場所にできないのか。そのように市民のアイディアを自由に試すことのできる場が、公共空間内に生まれたらどうだろうか。

公共空間は、住民が税金を払っているものだから、適切に運用される必要がある。それがために様々なルールに縛られていて自由度が低いのだけれど、その一部でも、もっとオープンにして、市民が楽しみながら参加できる場所を作っていけたらいい。

そうやって市民が公共空間を”遊び心”を持って使う中から、「公共」とは何か、「公共空間」を有効に使うとはどういうことなのか、といったことについても自然に考えられるようになるはずだから。


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