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展覧会:千葉雅也『マジックミラー』『幅が広い踏切』『間違えたらもう一度繰り返せ』感想

2022年ことばの学校第二期の講義で、佐々木敦が千葉雅也に「長編小説を書いてほしい」と言っていて、私はそれを聞きながら、そりゃあ勿論読みたいが(読みたくないわけがないが)、その前に短編小説をもっと読んでみたい、と思っていた。

短編『マジックミラー』が好きだからだ。そして、「好きだから」という以上に、『マジックミラー』は中編『デッドライン』『オーバーヒート』よりもモチーフの配置が明確で、構成を理解しやすいからである。「意味の手前において展開している要素の関係性に意識を向け」、それを楽しむ千葉雅也の小説の魅力は、短編においてより伝わりやすいのではないかと思う。


『マジックミラー』では作品の最初と最後に鏡が置かれている。「あの店の名前」という思い出せないXを抱えながら、数々のハッテン場の光景の中を行く。似て非なる暗闇が繰り返し現れる。明度と彩度が少しずつ異なる灰色の紙をずらして並べるみたいに。一人の人物に、別の姿をうつして見る。二重うつし。そうした度重なる複製と二重露出の最後に、鏡に映る唯一無二の自分の身体にたどり着いて、話が終わる。
緻密な構成の中に熱気のこもった描写が閉じ込められていて、完成度が高く、繰り返し読んで飽きない。


一方で、最新作の『幅が広い踏切』は全く別の味わいだった。ライブペインティングのように、いくつかの要素(色)をば、ば、ば、ばっと画面に描きつけて、一気に仕上げたような速度がある。
幅が広い踏切、まっすぐな海老天、Nゲージ..、関連性が掴めないいくつかの要素が連想的に現れて、そして最後に正反対なものがイコールで結ばれる。

曲がってる?
そうだと思う
まっすぐ?
そうだと思うよ


飛び散ったかのように配された数々の色に、最後にぎゅっと手のひらを押し付けてぐるりと一回転させて混色させたみたいな。

『幅が広い踏切』を、私はゆっくり読むことができなかった。おなじみの神経症的な細かい観察眼と卓越した表現力による描写を、ゆっくり一文一文味わうように読みたいな、と思うのだけれど、何故だか読んでいると背中を押されるように「速く」読んでしまう。というか、そのようにしか読めない。ライブペインティングにおいては、創る速度と鑑賞する速度が一致するしかないように。


『間違えたらもう一度繰り返せ』は超短編ーー、『ことばとVol.7』では「巻頭表現」として配置されている。「間違えたらもう一度繰り返せ」とは、山下洋輔が言ったこととして作中で紹介されている。ジャズにおいては「そうすれば音楽になる」と。つまり、何かを作品化するための最短の方法の一つ、ということだろう。サインをすれば便器でも作品になる、というのと同じで。

何かを作品化するための最短の方法をタイトルに掲げて、ごく短い作品を書くというならば、作品自体が作品化の最短の方法を使って描かれているのだろうかと、まず考えてみる。
「間違えたら繰り返す」を、地で行くように作品内で間違えてみて、それが繰り返されている?
しかし、「間違えたら繰り返せ」は後からでしか使えない手だ。意図的に間違えることはできない。不可能。不可能なことを、作品内に結晶化できるのか?と考えると、「完全に密閉されたノロウイルスの入った小瓶」なるものが作品に登場する。

それを眺めた後、併設されたレストランで牡蠣を食べる、という行為が描かれる。危険を完全に管理するという不可能。不可能を閉じ込めた作品の中には不可能が描かれていて、その不可能を眺める人々も描かれていて、それを私たちが眺めている。無限に続くドロステ効果がここにはあって、そうしたフラクタルを用いることも、確かに何かを作品化するための最短の方法の一つだ。


様々な手法で描かれた小作品をずらり並べた展覧会のような、そんな魅力的な千葉雅也の短編集を是非とも読んでみたいのだ。



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