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互いの愛で己を赦す、救いの物語――映画『きみの瞳が問いかけている』考察と解釈と幻視と。

はじめに

映画『きみの瞳が問いかけている(以下、『きみのめ』)について約1万字で自己満足を垂れてます。長いです。
鑑賞済の方もとい私に向けた解釈と考察および私の幻視との戦いのため、とんでもなくネタバレで分かりにくいです。あらすじすら載せない、完全に私向け文章です。
作品評ではございませんので悪しからず。

そして私はこの作品、大好きです。
公開3週目に出塁からの満塁ホームランなう、です(=4回見ました)

「純愛」「泣ける」という宣伝文句に隠された「赦し」のテーマ。
いや、聞いてないんですけど!?

語りたいのは
・原案からの変更点
・変更点から見るテーマ【罪とその赦し】
・「彼女の目が問いかけている、僕は答えなければ」の【問い】と【答え】
・ラストシーンの解釈(という名の幻視)

以上4点、ノベライズ本はあえて未読で書きました。

以下、リメイク版を標準として原案の登場人物は『原案塁』などとしていきます。
(原案『ただ君だけ』、2人の距離の縮め方や過程が丁寧。恋愛映画として秀逸!)


原案からの変更点――より罪深く重くなった塁の過去

まず、本作はリメイクですが、恋愛描写はほぼ原案どおり。原案の良いところはそのまま生かしてます。
なんなら話の大筋も原案そのままなので、原案冒頭30分を見た際に「リメイクする必要ないのでは?」と思うほど。
特に明香里については雰囲気、表情、話のトーンそのものまでも明香里の原案であるジョンファ(ハン・ヒョジュさん)を彷彿とさせます。
元から雰囲気が近い役者さんだったのでしょうか、この安定感がリメイクとしての軸をブレさせなくて良い。
吉高さんインタビューやパンフで少し言及があり、納得の配役。
まさかのマネージャーさんの提案企画とは、営業力と熱意が凄まじい…!

そう、横浜流星さん演じる塁が、年齢はじめ設定の変更がとにかく多い。
ただ物語の本筋は同じのため、リメイクの矜持は保ちつつ、『きみのめ』が原案と異なるアプローチをすることになります。

『きみのめ』では塁の罪の重さを原案から増し増しにしているのが大きな特徴です。

(主な変更点)
・塁の過去が重い。犯した罪がより重い上に償えない。
・それら全てが塁の生まれ育った環境要因。
・聖書色が強い(教会でのシーン、『罪』『赦し』『償い』についての話の増加)
・日常や恋愛シーンのカット、省略がされている(!)

このように重いのですがあまりにも重いしリアリティがなく、フィクション感が強い。
もともと突拍子もない設定多いですし(※褒めてます)
それでも2人の心情の移り変わりや格闘技シーンなど確かなリアリティもあって、作品としてのバランスがいいのです。

話を戻しまして、一例ですが、過去が重い点について具体的に。

親関係
原案:元々孤児で施設育ち。
きみのめ:母は幼き塁と海で無理心中するも塁だけ生存。

例の事件の顛末
原案:男は全身やけどを負うも生存し、原案塁は定期的に見舞いをしている。
視力が回復した明香里へ、例の事件と塁の関係を話したのはその男。
きみのめ:男は亡くなり、家族に謝罪を申し入れるも拒否される。
視力が回復した明香里へ、例の事件と塁の関係を話したのはシスター。

借金取り(用心棒)の仕事
原案:自らの意思(おそらく出自や学歴などから仕事が選べる立場ではないと思われます)
きみのめ:半グレ集団もとい孤児院の同窓・恭介との付き合い、半ば本人意思ではない。
(恭介との関係が切れないのは、塁にとってはおそらく唯一と言っていい家族に近い存在だったからでしょう…)

そんな塁ですが、自らの行いに罪悪感を抱いているのは一目瞭然です。
町田啓太さん演じる半グレ集団のボス・恭介との幼少期回想でのシーンが原風景でしょうか。

自分の過去を聞かれた際に、防衛本能で明香里を傷つける発言をしてしまった塁。
教会へ向かい、イエス様の像の前に立ちます。その後、幼少期の回想へ。
「罪を認めるな、良い奴が馬鹿を見るだけだ」
塁の背中を、イエス様の像が見つめており、幼き塁の罪悪感をより増幅させます。

例の事件で亡くなった男の遺族への謝罪も同様です。
原案では生きている男は亡くなってしまう上に、遺族に電話で連絡するも拒否される。

塁は罪を償おうとするもそれすらできないまま、ただひたすらに罪悪感だけがのしかかります。
前髪で目が隠れたり、冒頭の目覚めのシーンからしばらく画面が暗いのとリンクしてますね。

あと個人的には、明香里と住む世界の差を明確にし、塁の抱える罪をより重く見せる意図を感じました。

私の中で特徴的かつ印象的だったのが、自宅まで押しかけてきた上司に襲われかける明香里を塁が助けるシーン。
そもそも泣ける純愛を唄う恋愛映画を観に来て、相手がセクハラ上司とはいえ、ここまでボッコボコに一般人殴るシーンがあるとは思わなかったんですよ!褒めてます!

塁がセクハラ上司を殴る…いや、ほぼほぼ半殺し。そこまでは原案通り。
ただ驚いたことに、原案では指まで折ってないのです()。血は原案の方が流れてますが。
その後の応酬が、これまたしんどい。
視覚障害を抱え転職が困難なため、生きていくためにセクハラ上司にも耐え忍んで働いていた明香里。
対して、生きていくためには半グレ集団で暴力行為や悪事に加担するなど、罪を犯すしかなかった塁。

原案になかった「上司の指を折る」という行為から、塁のこれまでの暗い過去の片鱗が垣間見えた気がしました。
ここで明確に明香里と塁のこれまでの生き方の違い、もとい、塁の切っても切り離せない過去が浮き彫りになったのでした。
※ 2021/1/5訂正あり 段落一番最後に訂正を記載しております。

他にも細かい点ですが、序盤のコンサートデートのシーン。
ジャズ演奏のような、若干敷居の高い雰囲気のコンサート。塁が周りを見渡していた表情が印象的でした。
原案ですと、小~中規模ライブハウスのようなボーカル曲の、リメイクよりも参加ハードル低めなコンサートなので。
本当に徹底的に生きてきた世界の違いを出そうとしてるよなぁと改めて思った次第でした。

日本版へ落とし込むにあたり、流血描写や恋愛描写は多少抑え込まれているとは思います。
ただ思った以上に原案そのままな上に、塁の設定はとんでもなく重くなってます。過去が真っ暗闇です。

だからこそ、真っ当な生き方をしようと再びキックボクシングに励む塁の心情や表情の変化、2人で築き始めた生活の輝きがより際立つ。光を多く取り入れることで視覚的にも多幸感が溢れてますね。
そして恋愛映画は美男美女でこそ映えるなぁと改めて思いました。
おふたりとも、顔が、とんでもなく、いい。

※2021/1/5 訂正
一部シーンを盛大に勘違いしておりました、お詫びして訂正いたします。

塁がセクハラ上司を殴る…いや、ほぼほぼ半殺し。そこまでは原案通り。
ただ驚いたことに、原案では指まで折ってないのです。血は原案の方が流れてますが。

原案から指折ってました、本当に申し訳ございません。
『ただ君だけ』ファンの方がご覧になっておりましたら大変失礼いたしました。他に見間違えている点がございましたらご教示頂けますと幸いです。
※訂正ここまで


変更点から見るテーマ【罪とその赦し】

『きみのめ』を読み解く上で鍵となるセリフが、塁の母親代わりとも言える、風吹ジュンさん演じるシスターの塁への一言。

「あなたのことを赦していないのは、あなただけなのよ」

監督のインタビューでも漢字は【赦し】になっているのです。
【許し】を用いると、犯した罪を帳消しにすることとなります。
罪は「赦されうる」が「許されない」もの、ということでしょうか。
【赦し】をどの場面から読み取るのか、それが『きみのめ』で追加されたテーマとも言えます。

原案でもシスターは出てきますし、原案塁も洗礼を受けております。
ただ、前段で挙げた原案との設定の相違点でもあるように、原案塁の抱える罪は「明香里の事故を招く事件を起こしたこと」だけとも言えるのです。
なぜなら原案では例の事件の後、全身やけどを負いながらも男は生きており、原案塁は男を見舞い、男も塁への怒りを見せておりません。
それこそ、原案塁を赦しているからこそ、塁と明香里の事故の関係、そして塁が抱く罪悪感を明香里へ直接伝えたと考えられます。
原案では【赦し】についてはあまり触れておらず、真っ向からチョルミン(塁)とジョンファ(明香里)の純愛を描いているのです。
原案は光に、『きみのめ』は闇に強く焦点を当ててます。ゆえに大筋が一緒でも異なるラストシーンを描くこととなるのです。

さて、塁と明香里、二人とも「罪」を背負い、自らに「罰」を与えています。
…が、ここから先長くなったので、最初にこの段のまとめをします。

明香里は明香里を赦し、目の手術を受け、両親を自らの運転で亡くした現実をありのまま受け入れました。
しかし塁は塁自身を赦せずに、罰として明香里と関わらない道を選びます。
2人が再会出来るとき、それは「塁が塁を赦したとき」ほかならないのです。

明香里が抱える罪は「自らの運転する事故で両親を失ったこと」です。
ただ彼女が抱える罪と罰については原案同様かつ、それを表す方法も明確でした。

明香里の視力は、手術をすれば回復の見込みが高かった。ただ、明香里はそれを塁には告げませんでした。
費用の問題もありつつ、もし視力が回復した場合、自らの運転で両親を亡くした現実を目にすることになるからでした。
罰として「見えないこと」を受け入れていた。そしてその方が気楽だから、とも。

そんな明香里ですが、手術を受ける決意をします。
明香里はこれまで決して、自分を赦すことは出来なかった。
しかし「明香里を思う塁のために」自分を赦す決意をします。
この記事のタイトルになぞらえると、「塁からの愛を以て己を赦す」でしょうか。

一方、塁が抱える罪は
1「用心棒の仕事で結果的に人を殺めてしまったこと」
2「事故の原因となる事件を起こしたことで明香里の視力と家族を奪ってしまったこと」
…などなどこれまでに挙げてきました。
1については既述の通り、謝罪も受けてもらえず。
2と、そして地下格闘技に用心棒など、これまで生きるために罪を犯してきたことについてですね。
シスターが言うように、塁のことを赦していないのは塁自身だけなのでした。
※「あなたのことを赦していないのはあなただけ」なので「塁以外」は赦している、ということになります。
これは『神』のことですかね、イエス様。もちろん、明香里をはじめ周囲の人という意味も込められているはずですが。
塁は自分を赦せないことにも罪悪感を抱える、まさに悪循環に陥っていたのでしょう。

最後の地下格闘技のファイトマネーを男性の遺族と明香里に振り込みます。ただ、男も明香里の両親も戻ってきません。
それでもお金を振り込むのは、シスターの言う「(過去は変えられないから)いま自分が捧げられるものを捧げるしかない」から分かるように、塁のせめてもの償いです。
ただし、これまで多くの罪を犯してきた塁は「俺は周りの人を不幸にする」と悔いてしまうほど自分に否定的で、それだけでは自分を赦すことは出来ませんでした。

恩師に報いず地下格闘技に戻った負い目。
半グレ集団から目をつけられて明香里の身に危険が及んでしまうこと。
何よりも「明香里に関わらない」という罰を自ら背負うことでしか、塁は自分を保つことが出来なかったのでしょう。

明香里の手術が成功した後、誰も塁の居場所や安否を知らないまま、時は2年が経ちます。
しかし明香里は2年経っても塁のことを忘れてはいませんでした。
明香里は2年たった今でも塁の帰る場所を作って待っていたのでした。

ここで正体を明かして無事ハッピーエンド!
…とならないのが本作。
このじれったい流れも原案通りですがね、本当にじれったい。

塁は自ら明香里に正体を明かすことはできないでしょう。
おそらく塁は「明香里が例の事故と塁に関連があると知っていること」を知らないと思われます。
(※知ってても多分正体を自ら明かすことはないと思いますが、今回は知らない前提で進めます)
明香里の両親を奪った負い目、何よりも、明香里がその事実を知った時に自分のことをこれまでと変わらず想ってくれる保証も自信もないからです。

これまでの人生で積りに積もった塁の罪悪感が、「明香里に関わらない」という彼の意志を確固たるものとしました。
逆に言えることは、塁が塁を赦せば、塁は明香里と再会できるのです。

塁による自らへの「赦し」――再会はいつ果たされるのでしょうか。
画面は暗転し、舞台は思い出の、塁の母が眠る海辺へと移ります。


「彼女の目が問いかけている、僕は答えなければ」の【問い】と【答え】

『ロミオとジュリエット』から引用されたこのセリフ、キスシーンの前に出てきてます。
そしてキスシーンの直前にもラストシーン同様のやりとりがありましたね。

「わたしの目を見て」
「見てるよ」
「うそつき」

そして遡ること、明香里の上司を殴打する際にも塁が使ってますね。

「俺の目を見ろ。次は…殺す」

どちらも「嘘をつかせない」という意図で使われてます。
さて、ラストシーンの会話を振り返ります。

「帰る場所はそこじゃない、一緒に帰ろう」
塁、明香里から目を逸らす。
「わたしの目を見て」
塁、明香里の目を見る。
「おかえり」という明香里へ塁が「ただいま」と返す。

前段から引っ張ってきますと
【塁が塁を赦せば、塁は明香里と再会できる】
というのが私の解釈のポイントです。あくまで私のですが。

視力が回復した明香里と塁が目を合わせます。初めて真の意味で「彼女の目が問いかける」のです。

「彼女の目が問いかけている、僕は答えなければ」の【問い】と【答え】について。
答えについて、「ただいま」という塁の返事の通り、明香里の元へ帰ることを意味しているでしょう。
すなわち2人の再会――塁の【己への赦し】と言えるのです。
長い、長かった…!

問いについては逆算して考えます。

では明香里の「おかえり」という言葉が塁への赦しとなったのか?
だとしてもそれは《明香里から塁への赦し》であり《塁から塁への赦し》ではありません。

ラストシーンにおけるタイトル『きみの瞳が問いかけている』の意味は
「明香里の瞳に映る塁が問いかけている」
すなわち《塁自身への問いかけ》ではないでしょうか。
「俺は周りの人を不幸にする」のに、自分は幸せになることを赦されるのか。
塁が塁自身に問いかけます。

かつて見えてない明香里と目が合う(ように見えた)たびに、見えてないのに見られている、見えていないからこそ心を見透かされる気がした塁。
逆に「いつか工房を作ろう」「自分の目で、自分の人生を見て欲しい」と塁が明香里を見つめるときも、塁は嘘偽りない本心を話していました。
明香里の瞳は、塁を映す鏡とも言えます。 

「ただいま」という答えに秘められた塁の【赦し】は、まさしく彼の本心なのだと思います。

この「ただいま」「おかえり」というセリフは原案から変更されております。
直接的な愛情表現を避けたのは意図的だと三木監督も発言されておりますね。


「愛している」を用いないラブストーリー、それはパンフレット等で三木監督が仰った、
「(塁の)犯した罪、その赦しが彼女の愛情によってもたらされる」というポイントにつながるのかな、と。
己への赦しを経て、塁は明香里の元へ帰る――心から彼女を愛することが出来る。

『きみのめ』には原案以上に【赦し】のテーマが込められております。
塁は明香里に愛されることで、塁を赦すことが出来た。
明香里は塁に愛されることで、明香里を赦すことが出来た。
その根幹には【愛】がある、だから『きみのめ』は真っ直ぐで純粋なふたりのラブストーリーなのです。

物語はハッピーエンドを迎えるのでした、めでたしめでたし。





が!





ここで終わってもいいのですが、まだ続きます。
「このまま終わってくれ!」と思う方は画面をそっと閉じてください。

ここから先は私の拗らせた解釈もとい幻視です。仮定から推察してるので完全に幻視です。
気付いたらすんごく長い上に支離滅裂になってましたがせっかく書いたのでそのまま流します。


ラストシーンの解釈――原案からカットされた場面

あえて触れませんでしたが、ラストシーンに入る前、唐突に暗転します。不自然なまでに。

実は原案では、原案塁を見失った原案明香里が車で塁を探し回るシーンがあります。
その道中で、塁の行き着く先を思い当たり、2人はその場所で再会します。
また、2年後の再会してすれ違って再会してすれ違う…は原案どおりです。補足まで。

『きみのめ』に話を戻します。

さて、ここでようやくラストシーンで塁が歌っていた『椰子の実』に触れます。
実は歌の要素、原案には全くありません。完全にリメイクでの新規要素です。
明香里は『椰子の実』について「私にも帰る場所があるんだ…っていう歌」と言っております。(歌詞は調べてください)

いづれの日にか国に帰らん
(=いつの日にかふるさとに帰ろう)

「いつか帰ろう」と思える故郷がある――だから『私にも帰る場所がある』という歌ではあります。
だからこそ、「今は帰れない故郷に思いを馳せる」という内容でもあります。
少なくとも、歌の中の主人公は今は帰る場所(故郷)へ帰ってはいないのです。

シーグラスについてもここで触れます。

まず原案ではシーグラスでなく石になります、意味合いは一緒ですが。
最大の違いは、原案では石は2つあり、原案の塁と明香里がそれぞれ1つずつ持つことになります。
その2つの石がふたりを繋ぐお守りとなるのでした。

『きみのめ』では塁がシーグラス(石)を持つことになります。
明香里の分のシーグラス(石)は、おそらく教会のオルゴールが代わりとなっているのでしょう。
波に揉まれ角が丸くなったガラスは海から流れ着いたもの、つまり『椰子の実』とも言えます。
ここでシーグラスと『椰子の実』が繋がります。リメイク独自の設定ですが上手い。

海辺のラストシーンは『椰子の実』の歌詞になぞらえているとも考えれます。
今は帰ることはできないけど、いつの日か故郷に帰ろう。
そして遂に塁は「ただいま」と帰る場所――明香里の元へ帰ることが出来ました。

ただ、それは原案と同じように、明香里が塁を見失った後の話なのでしょうか?
だって「いつの日にか帰ろう」なのですから。

原案にあった明香里の移動シーンのカットが、個人的にはすっご~く気になりまして。
(尺の都合や演出と言われればそれまでですが!)
と言いますのも、冒頭で述べましたように『きみのめ』はかなり原案に忠実なのです。冒頭とか建物のロケーションまで異常なまでに似てます。作り込みが凄まじいです。
また、原案にない設定や追加には、私が考えた限りではすべて意味があるものでした。
ならばその明香里の移動シーンのカット、意味があるのでは? という邪推がありまして。
 
ここから先は仮定を元に考察をしているので、ほぼほぼ私の妄言です。


誰にとってのハッピーエンドか

ちょっと話は逸れますが、Filmarksなどの『きみのめ』の感想を見て思いました。
「ハッピーエンドで良かった」というのコメントが多いのです。
おそらくそのハッピーエンドとは、塁と明香里、ふたりにとってのハッピーエンドでしょう。
(※感想の是非ではありませんので悪しからず)

私は『きみのめ』について、塁の物語だと思ってます。
アントニオ篠崎塁が柏木明香里と出会い、愛し愛され、己を赦し、救われる物語だと。
明香里も塁を愛し愛されることで救われますが、明香里は根本的に精神が強いんですよね。
キックボクシングをしていて身体的に強い塁ですが、精神面では明香里に支えられているのです。

結論から言えば、再会のラストシーンは、最後には己を赦した塁の心象風景だと考えてます。
塁が海に向かっていったのも、心象風景―塁が唯一帰れる場所へ帰ろうとした心境の例えでしょうか。 
(そもそもフィクションは総じて心象風景の具現化みたいなところありますしね)
それこそ『いつの日か帰らん(いつか帰ろう)』で、いつかは己を赦し、再会出来る暗示とも取れるかもしれません。

ただ、どんな結果であれ塁にとっては救いなのです。
私が思う救済は【魂の救済】です。
塁はどうなったの? ということについては…正直、何も考えてないです。
それでいいのです。

なぜこんな結論を導いてしまったのかと言えば、話は冒頭に戻ります。
改めてですが『きみのめ』、原案から比較して塁の設定だけがやけに重いんですよ。明香里はほぼほぼそのまま。
特に例の事件での男の生死については、生きていても進行上は問題ないはずなのです。
ここまで塁の罪を重くする必要なかったんじゃないかな?と思うほどには重くなってます。

塁にまとわりつく過去や罪へ【許し】がない限り、塁は塁に【赦し】を与えられないでしょう。
しかし過去も罪も帳消しにはできない。
もはや、神(という名の脚本)による、塁には何がなんでも赦させないという意地すら感じました。  

最初は『塁は己を赦した』ので『明香里と再会出来た』と考えてました。
これが現実であれば。
心象風景(イメージ)であれば、その因果関係は逆で良いのです。
『明香里と再会したい』ので『塁は己を赦した』とも考えることができるのです。
それは、明香里への愛を以て己を赦した塁、という考え方です。

私の『きみのめ』に対する考え方は【因果応報】です。
まさかのここで仏教。

罪を犯した人間はただでは幸せになれない、あるいはそれ相応の罰を受けなければならない。作品として、因果応報であってほしいという私の願望を込めた解釈です。この辺は完全に私の好みです。
(恭介はじめ悪役の皆さんは今回の解釈の対象外とします。いつか報いはを受けてくれ…)

ただ、しつこいようですが大切なことなので何度でも言います。

生まれながら償えない罪を背負い、己を閉ざし幸せになることを否定してきた塁にとって、己を赦すことは、救いのほかならないのです。
塁が明香里へ「ただいま」と言えたことは、彼にとってのハッピーエンド――真の意味で塁が救われた話だと思っておりますので。

ここまで長々と書いておいて言うのも変ですが…
塁が「ただいま」と言えたラストシーンがある時点で、どんな解釈でも、本作は彼にとっては幸せな結末だと私は思っています。


 書いてるときに浮かんだメモたち(供養)

※聖書的に自死は重罪という点も加味して、自死(入水)の可能性には否定的でした。
でも、自分を待ってくれている明香里の元にも罪悪感から帰れず、塁は教えすら背くほど現実が辛くなり…という見方もできそうかも?
教えに背いた魂は救われないが、明香里への愛で救われる――かなりファンタジー寄りの考え方ですが、正直、これはこれで私の中ではありですね。

※塁は母親の無理心中について「なんであの時一緒に死んであげられなかったんだろう、って思うことがあるんだ」と言ってました。
これも塁が抱える罪悪感の一つでしょうか、どこまでも本人要因でない塁の罪ですね。

※洗礼名が授けられること、そして十字架にイエス様の像が磔になっていることから、あの教会はカトリック教派でしょうか。
塁は罪悪感を抱える度に教会へ向かいました。
1度目は明香里を傷つける発言をしてしまった後、2度目は自分が明香里の事故の原因を作ったことを知り、明香里がこのままだと失明してしまうと判明した後。
塁の中に、信仰に基づく行動原理があると考えられます。少なくとも、まったく無い訳ではないでしょう。

※現実で明香里が塁と再会出来ない2年間は、明香里の受ける罰の期間でもありましたね。
目の手術に成功して、両親の居ない現実を受け止め、塁のいない世界を生きる。あの後、再会出来ないとしたらとんでもなく重い…

※2年後の明香里が、塁のことを気にかけていると分かるもの(店名、金木犀やオルゴール)がなければ。
明香里に他のパートナーがいて、塁の帰る場所がなければ(絶対に絶対にないですけど!)。
海に向かうことはなかったと思いますが、映画冒頭以上に己を閉ざして、生きる屍にはなっていそうだなぁとは思います。
「ただいま」って言えて本当に良かったねぇ…完全に保護者目線…

※追加メモ
私が『きみのめ』を明香里と塁のふたりにとってのハッピーエンドと素直に捉えきれなかった理由に「明香里の目の手術代が違法賭博のファイトマネーだから」というのもあったりします。
原案も手術代の捻出方法は同様で、原案塁が違法賭博のリングに立つことでファイトマネーを稼ぎます。ただ原案はどう捉えてもラストシーンの再会、明香里は塁を見失った直後に車で追いかけていたので、手術代がファイトマネーだから云々というのは思い浮かばなかったのです。
こればかりは私の作品解釈の傾向が因果応報だから、というのも結構大きいのですがね…


さいごに

本作の解釈について、聖書に基づいた考えで貫こうとしてのですが、それは違うと途中で気付きました。あと解釈できるほど知識がない(致命的)
私の解釈は色々と自由でいいのです。
……言い訳しません、わたしの悪いクセです。
特に最後、私の仮定を基に考察するので完全に明後日の方向に行ってしまいした。

余談ですが、吉田秋生著マンガ『BANANA FISH』、野沢尚脚本ドラマ『青い鳥』『眠れる森』が好きなのです。
罪を犯した人間はただでは幸せになれない、あるいはそれ相応の罰を受けなければならない――実に因果応報がしっかりしています。
そんな個人的な好みもあってか、【塁にとってのハッピーエンド】という考え方で私の中では決着しました。
もう一度言います、この辺は完全に私の好みです。
ふたりにとってのハッピーエンドで解釈して頂いた方が絶対に観る側は幸せなので、あくまでこの解釈は私の幻視ということでひとつ!

たまたま観た映画を2週間で4回観ることになるとは思いませんでした。
こんなにもフィクションの中で生きる彼らに思いを馳せることができて本当に幸せです。
出会えて良かったと思える作品があることは本当に幸せです。

吉高由里子さん、横浜流星さん、三木監督、企画提案した吉高さんマネージャーさん。
そして映画『きみの瞳が問いかけている』に関わったすべての方へ最大の賛辞を込めて締めたいと思います。

20201124きみのめ

※2020/12/5 一部編集(セリフ、塁が教会に向かった時系列など)、追加(メモ供養)

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