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第14回「ブックマン瀬戸川猛資⑧」

 前回に引き続き、〈毎日新聞〉「今週の本棚」における瀬戸川の書評を見ていく。前回もご紹介した丸谷才一・池澤夏樹編『毎日新聞「今週の本棚」20年名作選』に再掲された七本の書評のうち、四本目から見ていこう。

・中薗英助『スパイの世界』(1992/5/11)
・クセノポン『アナバシス』(1993/7/18)
・丸谷才一/新井敏記編『丸谷才一 不思議な文学史を生きる』(1994/8/29)
和田誠『お楽しみはこれからだPART5』(1995/6/13)
荒川洋治『言葉のラジオ』(1996/4/8)
ウィルキー・コリンズ『白衣の女』(1996/5/13)
岩波文庫編集部編『岩波文庫解説総目録 全3冊』(1997/3/30)

 和田誠『お楽しみはこれからだPART5』は、ここ数年で全巻が愛蔵版として復刊されたことで話題になった映画エッセイ集。映画の名セリフの引用、スターの似顔絵とともに著者の軽妙で洒落っ気たっぷりの語りを楽しめるのが嬉しい「映画ファンのための書物」として高く評価された作品である。しかし瀬戸川はその評価に異議を唱える。

「しかし、そうしたうれしさや楽しさやしゃれっ気の面からのみの評価は、むしろ本書を矮小化させるものであるとわたしは思う。『お楽しみはこれからだ』の持つ価値はきわめて高いもので、日本で刊行された外国映画の本の中で最も重要なもののひとつであると考えるからである。」

 西欧の劇映画の台詞を、日本人である「視聴者」は字幕で読むか吹き替えで聞くか。この問題は大変根深いもので、例えば字幕は、「スペースと時間の関係から極端に縮めて翻訳しているので、微妙なニュアンスがけずりとられ」、「間も抑揚も伝えられず」、「文字を追うのに神経を集中するため、画面の動きや個性の把握がおろそかになる」上に、誤訳の可能性もある。
 それでもなお。「台詞の重要性」を理解した上で、和田誠は「観客の耳に残らず、一瞬目にとまっただけで葬り去られてしまう」字幕を目に残るものにして、後世に遺すために連載の形で記録しはじめたのではないか……瀬戸川猛資はその重要性を理解するがゆえに、和田の仕事を「一過性のお洒落なエッセイ」として見ることを否定する。

 荒川洋治『言葉のラジオ』は、著者がTBS系列全国ネットのラジオ番組「話題のアンテナ 日本全国8時です」(1991年10月から2013年3月まで出演)にレギュラー出演した時の台本をもとに書いた短いコラムを軸に、100編のコラムを収めたコラム集。しかしてそのテーマは「文学」「書物」「言葉」と、民放で朝から流すには一見似つかわしくないようなものばかり。
 あるいはリスナーの問い合わせや身の上相談を元に書いたものもある。

「荒川さんへの質問ですが、もし入試委員でしたら、どんな国語の問題を作られますか?」。そこで著者は答える。「駅から自宅までの道順を文章で書きなさい」という文章の問題を出します。

 この問いを受けて、リスナーに実際に自宅への道順を文章で書いてもらい批評する、という番組構成である。これを聞いた聴衆は、電波を通じて、文章の第一の目的は伝達であると教えられることになる。これらのコラム群を読んだ瀬戸川は以下のように述べている。

「つまりこれは活字と電波、二つのメディアにまたがる文芸読本であり、文章読本なのである。メディア社会がどう変質しようと、文学は元気に生きているのだ。活字離れがなんだ。インターネットがどうした。と、そんな気分にさせられる。」

 本稿発表から27年経った2023年にも、変わらぬ価値を持ったこの本を手に取ってみたい気持ちにさせる文章だ。

 その『言葉のラジオ』評の翌月に掲載されたのが、ウィルキー・コリンズ『白衣の女』評である。

「ウィルキー・コリンズの大長篇『白衣の女』の新訳が岩波文庫より刊行。これは探偵小説のファンにとって、快挙と言ってもいい出来事である。大いに騒がれるかと思ったが、一カ月たっても、その気配がない。ミステリーの読者は古典には冷たいね。仕方がない。評者が一人で騒ぐことにする。」

 と、開口一番焚きつける瀬戸川が『夜明けの睡魔』から10年経ってもまったく変わっていなくてなんだか嬉しくなってしまう。世界初の長編ミステリーは何かという疑問を振り出しに、同じくコリンズの『月長石』に対してなぜ本書『白衣の女』は重視されないのか、という謎に彼は迫っていく。
 その瀬戸川なりの解釈についてはここでは触れないことにするが(ぜひ『毎日新聞「今週の本棚」20年名作選』を手に取ってみてください)、むしろ個人的に興味があるのが、瀬戸川猛資はなぜ1993年以降盛り上がっていった「英米古典の、戦前訳がある作品の新訳、未訳作の発掘ラッシュ」について等閑視を貫いたのかという点である。実際、彼の1990年代の書評仕事を見ても、国書刊行会や東京創元社の仕事に対する言及はほとんどない。その唯一の例外が、1996年12月22日の「今週の本棚」に書いたダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』評だ。しかし瀬戸川は、この本の大半を占める作品紹介の部分はてんから無視し(著者の対象から適切な距離を取れない「マニア性」を批判しているほど)、序盤のカーの生い立ちの部分に特に注意を向けている。カーという作家がいかにして生まれてきたかということは気になるが、あとは自分で作品を読めば分かることで、付けたりと言わんばかり。
 瀬戸川はこの時点で、一部の作品を除くクラシックミステリから興味を失っていたのか。あるいは、「昨日の睡魔」の時点で「ここから新しいものはもう出てこない」と見切っていたのか……今となっては誰にも答えることの出来ない謎がここには残る。

 最後に紹介するのが、岩波文庫編集部編『岩波文庫解説総目録 全3冊』だ。1927年から1996年まで七十年に渡って脈々と刊行し続けられた岩波文庫の全書目を収録・解題を付したもので、岩波文庫の書誌情報をまとめたものとしては最大最高のものといっていい。しかし、あくまでも書誌本であって書評するような本ではないのではないか。そんな浅薄な疑惑を、瀬戸川は鮮やかに覆してくれる。
 まず瀬戸川が注目するのは、例えば〈ドストエフスキー〉と〈ドストエーフスキイ〉と〈ドストイエフスキイ〉のような「外国人著者名表記の不統一」である。編集部が統一すればいいところ、バラバラなままであるのを許している理由は確かに分からない。編集部が訳者の意向を尊重したため? その謎を切り口に瀬戸川は目録という名の地図を手に、「岩波文庫という知の殿堂」の探求を開始する。そして、読者をあっと言わせる、妙に説得力のある仮説をつかみ出してくるのである。
 瀬戸川がこの書評に書いたこと、それそのものは当たり前のことかもしれない。しかし、自分の〈読み〉を元に「分かりきったことをわざわざ」と言われることを恐れずに踏み込む(そして「発見」をつかみ取る)。その姿勢は活動の初期から何一つ変わっていない。そういうところに痺れてしまう。
 そういえば瀬戸川は「岩波文庫には探偵小説やSFが少なすぎる」と書いているが、その十年後、二十年後に江戸川乱歩の短編集が刊行され、それどころか2023年には『英国古典推理小説集』なる本まで出てしまうとは、まったく想像もしなかったでしょうねえ。

 何について書かせても面白く、しかも読みたい本がどんどん増えるのが瀬戸川猛資の書評の特徴だが、それが遺憾なく発揮された七編だと言えるだろう。もちろん、これら以外にも面白い評はまだまだたくさんある。英訳版『源氏物語』の誕生までの経緯を描いた傑作評伝、宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男』や、かの「まんだらけ」がいかにして生まれたかを当人側の視点から描く古川益三『まんだらけ風雲録』、文豪や文学の小さな謎をすくい上げて鮮やかに解き明かす(北村薫『中野のお父さん』シリーズを思いだした)池内紀『文学探偵帳』など、とにかく本を読みたい気持ちを賦活すること間違いなし。絶対に、何らかの形で日の目を見るべき連載であると、確信を持って言える。

 さて、瀬戸川猛資の新聞書評について、ここまで三回に渡って割と好き放題に書いてきたが、その魅力、そして90年代にも瀬戸川が大いにその実力を発揮し、活躍していたのだということを知っていただけたのであれば幸いである。


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