とある不幸な女の過去の記録

私は少し貧しい家庭の長女だった。 
家族は優しく博識な父と少しだけ厳しい母、それと可愛い顔して泣き虫な三つ下の弟。それと柴犬っぽいカラーの雑種犬。


貧しくてなかなかおもちゃなどは買ってもらえなかったが、自然の中で遊ぶのが好きな私はそれでも十分で、貧しいなりに幸せだった。

貧しい中でさらに生活を切りつめ、ローンを組んで念願のマイホームを建てた時の番地選びは小3の私がした。

大まかな土地は決まっていたが、「四葉のクローバーが沢山生えている空き地」を選んだ。そうすれば幸せが沢山訪れると考えていた。

それが最初に崩れたのは小学4年頃、父が倒れた時だった。
働き詰めのうえに出勤中に脳梗塞を起こして、失語症と記憶の大半を失った。
泣きながら会いに行った私を見て、開口一番に「お前は誰だ」と父は言った。父は忘れていたのだ、私のことも家族のことも。

その後 父の性格は豹変し、躁鬱病を発症し、働くことはとても困難になった。家計は傾き、何年もローンを組んで買ったマイホームのリビングの照明は電球ひとつに代わった。

躁状態のときは暴力がある。リビングに居ると背中など蹴られるので、弟と一緒に母の部屋にいる事が多くなった。夜も、母の部屋で寝た。

脳梗塞に酒と煙草が悪いということで、父は禁煙と禁酒することになった。料理酒まで処分したため、夜中に母の部屋に「酒を出せ」と包丁を持った父が襲いに来たこともあった。弟は眠りの深い子で気づかなかったが、母と私が気づいてドアを必死に押さえた。

その時は酒を出すからと落ち着かせ、酒と同時に電話の子機を隠し持った母が近くに住む母方の親戚を呼んでなんとかしてくれた。

外面が良い父は親戚や他人の前だとスンと大人しくなった。
これはたびたび起きたので家中の包丁は母の部屋に隠されたが、外面があまりに良くて父方の親戚は誰も私や母の言い分を信じてくれなかった。大人になってから聞いたが母には無理やりな性暴力もふるっていた。

父方の祖母の通夜でも、父から離れて波風立たないようそっけなく過ごす私の事を親戚は酷い娘だと罵倒した。
そんな父だったので、ある日鬱が悪化して室内で自殺未遂現場を見た時も無視した。いずれマイホームを出ないとならないことは悟っていた中学生の私はもう冷めきっていて「家の価値が下がるなあ」くらいにしか思わなかった。

高校進学はしたものの、定時制なら学費が安いと聞いたので昼間働いて夜は定時に行くことにした。
母も懸命に働き、私が高二の頃にとても安い物件を見つけて夜逃げするように別居した。当時飼っていた雑種犬は連れては行けなかった。ごめんねごめんねと何度も謝った。

ただ、母は当時成立したばかりのDV法(別居時に住所を隠してくれると聞いた)を知らず、私が勧めてもよくわかっておらず適用しなかったため父が戸籍謄本を取り寄せた時に住所がバレて、押しかけられた。
小学生の時の酒騒動の再来とばかりにドアを叩かれ叫ばれた。
内容は金を貸せとのことだった。

弟と一緒に応戦しなんとか帰らせたものの、いつ再来するかわからない恐怖に怯えた。
ドアを叩かれる音と声、姿がフラッシュバックする。
引越しせざるを得なくなったが、すぐ出来るものでもなく数年過ごして何回か父は来た。
父母はその後、協議離婚した。初めて連れて来られた家庭裁判所と街は眩しかった。父は自己破産し、家は競売にかけられたらしい。

犬の行方は知らない、あの子のことがあるから今後犬を飼う気はない。

近所の誰にも言わず、大家にも嘘の住所を教えて次のアパートに引っ越した。その後しばらく父は菓子折りがわりに刺身など持って当時の家付近を彷徨いていたらしい。

弟は新しい中学に馴染めず、なんとかアーケードゲームを一緒に行う友人達が出来たが貧しさ極める中で一緒のペースで遊ぶことは難しく、友達に金を借り続けて友人関係を破綻させ、中二で引きこもった。布団の中で携帯のゲームの無課金で脳死周回し、チヤホヤされる方が向いていたらしい。
「学校に行くか、家を手伝うかして」と言うと怒鳴った。

私は高校を卒業し、バイトしながら成人した。田舎の高卒就職は本当にろくなのがなかったのでバイトの道を選んだ。
上の学校に行きたかったが、すぐ使える金が必要だと判断した。

そのうちにヘルニアで腰を痛め、座りっぱなしにも立ちっぱなしにもならないバイト…アパレルに勤めた。

家に収入半分を入れ、副店長になったころ、働き詰めだった母が脳出血で倒れたと勤務先に電話が来た。56歳だった。
激痛と痺れる手足の中、やっとの思いで母が指定したのは、私の勤務先から1番近い脳外科だった。早退して駆けつけた。

弟は私と同じ定時制に入ったが、後輩を孕ませ中絶させ、折り合いが悪くなって中退していた。しかもバイトを辞めて再び引きこもっていた。パソコンを母にねだり、ゲーミングPCを買わせてゲームばかりしていた。
当時、弟と母は私に中絶の事を黙っていたが大きなストレスになっていたらしい。泣きながら自分を責める弟、激痛に暴れる母、呆然とする私。

母の命に支障は無かったが、左の手足に重い麻痺が残ってしまい働けなくなった。
弟は世間知らずの上に完全にヒキだったため、病院の手続きや役所の手続きは私が行った。

ICUにいる間は面会が早朝、昼、夜だけ。
「家族が会いに来てくれることがお母さんの励みになる」という看護師の言葉をパニック状態の私は鵜呑みにした。

早起きして4駅分自転車をこぎ、朝の面会。少し寝てから出勤、昼にも抜け出して会いに行き、夜は退勤後に行き。

やがて一般病棟にうつり面会時間フリーになると北海道の真冬、休憩に行くふりをしてコートを羽織らず飛び出してバスに飛び乗り、母に休憩時間いっぱい会いに行った。

医師の「お母さんは家の中でゆっくり杖で歩くくらいはできるけど、外では車椅子と数歩の移動程度が回復の限界でしょう」という言葉を聞いて私は泣き崩れた。

ところで学生の時から付き合っていた人は家で栄養たっぷりのスープを作り置きしたり、クリスマスに愛らしいコートを贈ってくれた。弟の作る謎の料理は無いよりはマシだった。

母は懸命にリハビリし気持ちが落ち着くと共に、落ち込む日も増えていた。
外階段登れないから、退院してもアパートに帰る事さえ出来ない…と。
私は引越しを決意した。エレベーターのある家に引っ越そう、そこで母を迎え入れよう、と。
水道が凍りやすい家だったこともある。

年中病院、平日休みなら役所、他は仕事、家に帰れば引越し準備…さて引越し、あとは母を迎えるだけ。休みなく動いた。

そんなある日、家の通帳から不審な引き出しが発覚。めちゃめちゃ大きい額ではないけど。

弟に訊くも、知らんぷり。犯罪に使われたかもと思いネットで調べてみると電話すると使われたATMを調べてくれる、とのことで…なんだか胃が痛いなぁ…痛……

痛い。

死ぬかと思う痛みに襲われて、リビングの床で悶えていた私に弟が突然の土下座。何。
前の家の水道が凍って、仕事で対応できない私の代わりにATMから金出して修理してもらう時に番号を教えてもらったから、たびたび鞄を漁ってカードを盗み、金を引き出してカードを戻していたと。

それまでなんとか一応味方だと思っていた弟を死ぬほど軽蔑した。金はまだ返ってきていません。

病院で胃カメラをすると、胃潰瘍が複数個出来ていました。
それでも母は帰ってくる。装具と杖をつけて。弟のことなんか知らずに。懸命にリハビリをして。

なんとか退院し迎え入れて、母に胃のことだけを打ち明けると「おかゆを作ってあげるね」と優しく言ってくれた。
コンロの前に椅子を置き、人が誰か傍にいる状況下でのみ火を使用していいと約束すると母は右手一本でお粥を作ってくれました。

私は元々細いのに痩せて、37キロになった。

そして段々と落ち込む日が増えていった。

ある日思ってしまった。
「死にたいなあ」と。

けれどこの私の心は何処にも出しようもなく相談するあても思い浮かばず、次第に「この人やばい」と思われる行動を意識してとるようになった。

階段から落ちたり、職場でわざと失神したり(失神ゲームという度胸試しみたいなのがあり、それの強化版をわざとおこなった)。
遠くに住む友人に紹介されて近くの精神科に通い、ほどなくして入院が決まった。
期限は1ヶ月。私の決めた1ヶ月。なんでかって?

クリスマスのセールと福袋のシーズンまでにアパレル副店長は店に戻らないと、って思っていたから。

しかし入院した途端に恋人に別れを切り出された。
「他の恋人が出来た」と打ち明けられた。

病院だから自殺を防いでくれるだろうという安易な心が透けていた。冷めた。そのあと結婚したようで、間違ってLINE登録された時の相手の苗字は知らない苗字だった。

当時のその人を未だに許すことは出来ないし、顔も合わせたくない。けれど、婚期迫ってる年齢になった頃に自分の相手の親が倒れて肝心な奴が病んだら詰むよね。
そうか、精神を病んでいたら10年以上の付き合いでも愛される要素はないのか。そうかそうか。生きている人間に本格的に冷めた。

そんな感じで大いに荒れた。

胃潰瘍は何回だって出来た。そのうちに体力はなくなり、精神力もすり減り、アパレルの後に資格取って介護など数年やったが長時間働くことは困難になった。

私が病院から与えられたのは「鬱病」という病名と、障害者手帳だった。
母に打ち明けた時「私のせいなのかい」とぽろぽろ泣いていた。
違う、と言いたかったが複数原因だったので、曖昧に笑って見せた。

就労支援A型という、障害に理解はあるし最低賃金保証、短時間の仕事を始めた。

夜職も一時考えたが、男性恐怖のほうが勝った。「男にめちゃくちゃ苦しめられてここまで来た私が知らん男に媚びたりしゃぶったりはめられそうになる恐怖は金貰っても精神面が確実に悪化する」と考えた。

母の介護、まだ働かない上に中卒で面接にさえ受からなくなってきているパラサイトニート弟を抱えながら、障害者雇用枠を目指して足掻いた。

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家の母の貯金、働かない弟、収入源は私の給与と母の年金だけ。毎月赤字。
底を尽きて、ついに生活保護を受けた。しかし家族3人で暮らすための家の家賃金額は上限があり、エレベーターがついている今の建物はそこを僅かにオーバーしていた。

また引っ越さないとねと話していた矢先、それは起きた。

ふとした事から弟が私の髪を鷲掴み、腹に数度の蹴りを入れた。母の作った味噌汁の具が少ないと怒る弟に「嫌なら食べなくてもいいんだよ」と声をかけたことがきっかけだったと思う。
その前にも首を絞められたことがあった。思うように金を母から貰えなくなってヘビスモなタバコ代とパソコンの回線代が払えなくなった弟の苛立ちが爆発したようだった。

いや…君がちょっとでも働いてくれたら済んだ話だったんだよ全部……と思ったがマジで次は殺されそうなので言葉を飲み込んだ。死んだら母が可哀想だから。

代わりに「これは障害者虐待にあたる」と診断書を取り役所の福祉課に相談し、警察に届け出た。

役所や警察を巻き込んで大きい騒ぎになった。
その中で、母も弟に殴られるなどしていたと判明した。

よぎる父の姿。鬱病と暴力、流れる血。心底辛い。
弟の場合は家庭内窃盗、中絶、引きこもり、暴力…酷い。
次暴力したら逮捕という書面を書かされていた。


結果は「引越ししなきゃいけないタイミングだし、母と私は弟から離れるべきだし」と【世帯分離】というものになった。

母は施設、弟と私は一人暮らしすることになった。
足りない金銭面は国が助けてくれるから、逃げて療養なさいと役所の人は言った。

母には月一くらいで、会う。
弟は絶縁状態。

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鏡を見る。
体重は普通に戻って、気を使って頑張っている容姿だ。
いくらか若く見えるのが救いだけれど、もうこんな年だ。うつ病発症から9年経っていた。わたしなにやってたんだろ。

心身が弱くなって長時間は働けなくて障害と闘病中、生活保護。最近障害年金もなんとか通って、今は給与4:年金4:保護2 くらいの割合で暮らしている。

友達には言えない。恋人は…諦めに近い。条件が悪すぎる。役所に強いくらいしか取り柄がない。お嫁さんなんて遠い夢だと思う中で、Twitterのタイムラインの友達がどんどん結婚したり出産したりしている。正直辛い。

わたしはおばあちゃんになるまで惨めに1人で暮らして孤独死するんだろうな。お母さんが死んだら後を追おうかな。

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そう思って三年経った。一人暮らしは鬱病もちには過酷すぎる。自炊も洗い物もする気力がなくなってしまっている。怒鳴り声に怯えず寝られるのはいいが。

せめて、おかねほしいな。絞り出すような気持ちで「ぱぱかつ とか しえん さっぽろ」とかTwitterの検索バーに入れた。

すると「札幌の女性支援 困っている方に食品をお分けします、DMにて。」そんなアカウントを見つけた。怪しくなさそうだったし優しい団体さんだったので何回かご飯を貰いに行った。

何回目かの時に私の状況を相談した食料支援の団体から女性支援のNPO法人に繋がり、そこから地域の相談室へとバトンが渡った。


そしてグループホームで、時に人の手を借りながら一人暮らしに限りなく近い生活を送れるように手配してくれた。

少し道が開けた気がする。

それでも、昔飼っていた犬が生きていたらこんな感じになっていたんだろうなという、あの子に似た老犬の動画を毎日見る。

ごめんね、君のことだけは助けてあげられなくて。ごめんね。

今すぐ天国で抱きしめたいけど、私はもうすこし地上で足掻いてみようと思い始めたよ。

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