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【エッセイ】高嶺の花が、心の側でそっと笑う

 我が平生に絶世の美女がいる。凜とした佇まいで淑やかに咲き、至福の言葉と可憐な笑顔で、衆生をぱっと明るくする。誰もが思い描く理想の美人像。そこに最も近い女性が、今、私の目前で笑う。

 読者諸君、ご機嫌いかがだろうか。らしくもない始め方をしてしまった。美人は三日で飽きるという欺瞞を一笑に付し、365日の美人凝視を続けた私である。感傷に浸ったキザな文章を書くのも詮方ない。
 我が職場には、圧倒的才色兼備を誇る一人の女性がいる。彼女があまり美しいばかりに、この世の森羅万象は彼女以外汚いものばかりだと錯覚するほどだ。錯覚が強すぎるせいか、私の醜悪な顔はもうドブに捨てて良いとさえ思っている。ジャムおじさんの手が滑り、明後日の方向に飛んだアンパンマンの顔が私の顔にぶつからないだろうか。あぁ、元気百倍になりたい。
 これほど人が自己嫌悪になる美人は、全世界見渡しても片手で数えれる程度であろう。故に、直接的過ぎて品性の欠片も無いあだ名をつける。彼女の名は美人先輩だ。そして、美人先輩に四六時中見惚れているせいで、入社以降仕事が全く手に付かない私だ。

 さて。と言うわけで、今日は彼女の一顧傾城たる生き様を紹介していく。

 美人先輩は理知的である。頭の回転が非常に早く、機転の利いた仕事ぶりが好評を博している。美人先輩は愛媛出身である。時折出る柔らかい方言は、こちらが身悶えするほど繊細な愛嬌を引き出す。美人先輩は可愛らしい。たくさん笑って、ひたすら喋って、一生見つめていたい幸福に襲われる。決してお高くとまるような女性ではないが、全男性の理想をかき集めた、高嶺の花に相応しい存在なのだ。

 私は疑問だった。美人先輩は何故この会社で働いているのか。私のような一生うだつが上がらないであろう人間と同じ職場で精励恪勤していることが、不思議でたまらなかった。稼ぎたいならもっと他の職があっただろうし、仕事に追われたくないのなら今よりも楽な生き方があるはず。甚だ理解ができなかった。

 ある時、残業の末に美人先輩と二人で帰るという僥倖が訪れた。暗い夜道で、私は美人先輩に疑問をぶつける。

「美人先輩はどうしてこの職場で働くのですか」

「どうして……?」

「いえ、やはりお綺麗ですし、明るくて快活ですし、もっと良い職場なんて他にあるんだろうな……と思ってしまうのです」

「めっちゃ褒めてくれるじゃん」

「多分、全員が思っていることを代表して伝えただけです」

「ふふっ……。そうなんやね」

 この時、既に私の頭が爆裂寸前だったことは想像に難くない。ただでさえ美人先輩の隣という身に余る光栄の場。はっきりとした美しい瞳に吸い込まれそうである。意識は辛うじて保っている状態。純愛が高じてもはやただの傀儡。今、この気持ちを手紙に出来るのなら、紙一面を幸甚に存じますという文字でびっしり埋めて、美人先輩に送りつけたい。だが、溢れ出しそうな気持ちをぐっと堪える。理性と本心を綯い交ぜにして私は続けた。

「で、どうしてこの職場なのですか。私には分かりません」

「良い職場じゃん。ちょっと残業は多いけど、みんな良い人だし」

「それだけですか……?」

「うん。転職も面倒だし」

 美人先輩は、日頃、懸命に働いている。今日とて、日がな一日精を出し、周りにも気を配り、八面六臂の勇躍を見せている。その姿からすると、意外な回答だった。知らない一面を見た気がして少し嬉しかったのは、私に疚しい気持ちがあるからだろう。

「美人先輩は夢とか目標とかは無いのですか」

「特にはないかなぁ。今は……」

「じゃあ、社会人になる前も……」

 美人先輩は唐突に声を大きくし、喰い気味に返答した。

「大学の時はあったよ!」

「そうなのですね! 気になります」

 美人先輩は、一際明快に言い放った。

「お嫁さんになること!!」

 死ぬかと思った。あまりにも甘い言葉に脳震盪が起きるかと思った。甚だしく可愛い声色に胸が締め付けられた。現世に存在する可愛いを全て集めても今の一言に敵う事は無いであろう。たった今、全世界の大地が色取り取りの花々で覆い尽くされ、空は青く澄み渡り、人々の悲しみは全滅した。もはや苦しみという概念は存在せず、美人先輩の笑顔を崇め奉る活動を軸に人類は動き始めた。

「死ぬところでした」

「どういうこと?」

 無意識でこれが出来る。もし彼女が覚醒し、本気を出し始めた際は、全ての男性が軒並み倒れていく様を目撃できるだろう。

「お嫁さんになりたい…とは…?」

「そのまんまの意味だよ」

「なぜ、それが夢に……?」

 既に私は思考を停止していた。これ以上は二の句が継げない状態だった。脳内に何かが浮かび上がる事はなく、頭が真っ白のまま、ひたすらにニヤニヤしていた。溢れる笑みを抑える理性など、とうの昔に失くした。私は今、辛うじて立っている。

「うーん。お嫁さんに憧れてたんよ。別に好きな人がいたとかじゃなくて。旦那さんがいてさ、朝とかお弁当作って。子供がいたら毎日遊んであげて……」

 私は口角を上げたまま何も言わない。

「素敵やない? 毎日ただいまとおかえりが言えるって。だから、若くしてお嫁さんになって温かい家庭作りたいって思ってたんよ」

 夏の夜空は綺麗だと思った。美人先輩の美しさには劣るが、無限の暗色が広がる。私は宇宙の広大さを一身に感じた。

「え、どうしたん。さっきから反応無いけど」

 今、目の前で喋っているのは高嶺の花である。しかし、花といえど、咲き誇るのは小さいピンクのチューリップ。馴染み深く、皆に愛され、誰の心にも綺麗に入ってくる。気安く触ることはできないが、気軽に水をやることは出来るのだ。美人先輩は、皆の側で笑ってくれる。

「何ニヤニヤしてんの。むかつくー。私が一人で喋ってるの、見て楽しんでたんやろ」

 危ない。思索に耽るあまり、嫌われるところであった。そろそろ現実に戻らねばなるまい。しかし、嘘をつく気力ももはや無い。

「楽しいです」

「なんか友達みたいになってきちゃったね。嬉しい」

 この日は、無味乾燥、無知蒙昧の惨憺たる我が人生に閃光の如く色が灯った。高嶺のチューリップは、たとえ砂漠に植えられても、その一帯をオアシスに変えるほど輝く。生きてて良かったと思った。

 帰宅した刹那、ベッドにて枕に顔を埋め、快哉を叫んだ。

「───なんなのだあれは! 愛しすぎて死ぬかと思ったぞ!! 我が余生はまだ捨てたものでもないかもしれない!!!」

 私の未来は暗いが、美人先輩がいれば、日本の未来は明るい。読者諸君、諸君らは素晴らしい時代に生まれたな。いつか共に快哉を叫ぼう。ではまた。

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