見出し画像

先生になったわけ① 母が作ってくれた服。

私が人生の選択として、「家庭科の先生」という職業を選べたのは、母の影響がとても大きい。

母は、商業高校を卒業してすぐに銀行員になったのだが、その後どうしても洋裁に携わる仕事がしたくて、習い事がしやすい環境の職場に転職した。当時、大流行りだった洋裁学校で技術と知識を身につけた母は、その後しばらくの間、先生としても働いていたようだ。

結婚を機に嫁ぎ先となった今の家の2部屋を改装し、小さなブティックを経営。そしてその傍ら、アパレル企業から依頼のあった、サンプル品の縫製を仕事とするようになった。

ブティックに置く商品は、父と2人で仕入れに行く時もあれば、子ども服なんかは母が自分でデザイン縫製して、販売していた。ちょうど程よい年頃になっていた私は、販売用の子ども服の試着をいつもさせられて、でもそれは自分ではない誰かのものになって売れていく。または、お気に入りのあの服が、売れもしないのに自分のものにはならず、店に並んだままサイズアウトしていく。というのが嫌で、試着を拒んだりもした。ブティックの商売はそんなに長続きせず、気がついた時には、サンプル縫製という職業が母の仕事となっていた。

母の毎日は忙しく、徹夜続きで納品をする日も珍しくなかった。自営業というのは、一見すると自由で気ままなようだけど、仕事と日常の線引きや管理が難しいというのを、子どもながらに見て学んだ。いつも1秒を惜しんで仕事する母の姿がかっこよく、単純だった私はただ憧れを持った。それがファッションデザイナーを夢見たきっかけだ。

忙しい中でも母は、気まぐれに私に服を作ってくれた。中でも一番のお気に入りは、小学校6年生 修学旅行の朝、例によって徹夜した母が着させてくれた上下真っ赤なツーピース。目が覚めるような赤と、修学旅行の興奮とが相まって。私の胸はこれ以上なくワクワクした。

同級生のみんなが新しい洋服を新調する修学旅行で、貧乏だったうちの家。私は何を着ていくんだろうと、口にはしないけど、そこはかとない不安を抱えていた。魔法のように一晩で出来上がったその真っ赤なツーピースは、深く深く心に刻まれる思い出の一着となった。

特別な服は、人の心をワクワクさせる。
ただ身に纏うだけで幸せな気分になれる。

母が作ってくれた服には、そんな力がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?