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アジアと日本の歴史⑤ ビルマ(ミャンマー)~東条首相に感謝した独立の英雄

 1989年に国号をミャンマーに、当時の首都ラングーン(現在の首都はネーピードー)をヤンゴンに改名したかつてのビルマ。しかし旧国名、首都名は、日本人にとって、竹山道雄の『ビルマの竪琴』や、北朝鮮工作員が全斗煥韓国大統領一行の暗殺を謀った「ラングーン事件」、国語は「ビルマ語」と普通は表記します。アウン・サン・スー・チーさんも「ビルマ」の呼称にこだわっているとか。本稿では「ビルマ」で統一したいと思います。
 19 世紀初頭以来、インドを侵略した英国の圧力を受け続けてきたビルマは、度重なる抵抗もむなしく、1886 年に全土を英軍に占領され、英領インドに編入されました。その後は、インド人や中国人が大量にビルマに移住し、ビルマ人の生活を圧迫してゆきました。
 ビルマ独立の指導者としては、アウン・サン・スー・チーさんの父であるアウン・サン将軍が有名ですが、忘れてはならない人物がいます。それがバー・モウです。
 バー・モウは1893 年に生まれました。「日本、ロシアに勝利す」のニュースは、他のアジアの独立指導者と同様、幼い彼をも興奮させました。独立の夢を胸にしたバー・モウは、弁護士を経て政界入りし、自治政府の初代首相となりましたが、政治犯として投獄され、日本軍が侵攻した時には、脱獄中の身の上でした。
 日本の軍政が開始されると、バー・モウは積極的にこれに協力し、昭和18(1943)年8月には独立を宣言し、日緬同盟条約を結んで英米に宣戦布告までしたのです。
 バー・モウは、もちろんビルマを英国のくびきから完全に解放することを望んでいました。しかし、彼の目はビルマ国内だけではなく、隣国・インドの将来に対しても向けられていました。ビルマが独立宣言をした年に、ベンガル地方で350万人が餓死するという大飢饉が起こっていました。食糧不足は人為的なものでした。英国政府はベンガルから連合国側に大量の食糧を供出する一方、穀倉地帯のビルマを失っていたため、食糧の移入もままならなかったのです。それを英国が放置し、アメリカも見て見ぬ振りをしていました。「インドの解放なくしてアジアの解放はない」。バー・モウは堅くそう信じて、インド救済に手をさしのべようとしたのです。
 バー・モウは決して日本の傀儡ではありませんでした。彼は、英国の支配を押しのけるためには、その敵である日本と手を結ぶ必要がある。と考え、それを実行していたにすぎません。当時のアジアの指導者たちは、みんなそう考えていたのです。
 昭和20年3月、アウン・サン国防相率いるビルマ軍は、突然日本に宣戦布告して攻撃を開始しました。このアウン・サンの寝返りについて、バー・モウは事前に相談を受けていました。彼らは、日本の敗戦後のことを考え、日本と戦ったという既成事実を作っておこうと考えたのでした。バー・モウは「親日政権」の指導者として、粛然として日本へ亡命しました。
 バー・モウは自伝の中で「真のビルマの独立宣言は1943 年8月1日に行われたのであって、真のビルマの解放者はアトリーの英国労働党政府ではなく、東条(英機)大将と大日本帝国政府であった」と語っています。
 ビルマ独立に果たした日本の役割は消極的なものだったかもしれません。しかし、それもビルマの人々の胸に深く刻まれているのです。

連載第37 回/平成10 年12 月29 日掲載

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