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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第10章 羽地朝秀と蔡温②

2.薩摩藩支配下の琉球の政治

【解説】
 仲原お得意の「種明かし」である。この後の数章分をここでまとめて書いてしまっている。読み物としては、この部分は不要である。上巻部分の最後のまとめにもっていきたいところだが、読者が原本と併読する際に混乱するといけないので、やむを得ず整理した。原文のところで内容は示しておいたが、この後、置くべきところで再掲する予定だ。しかし、「2」の冒頭部分については、ここで整理すべきだと思うので、無理矢理に持ってきた。言いたいことを先に書いてしまう傾向があるので、整理するのに苦労した。
 仲原はこの時期(日本の江戸時代にあたる)を3期に分けたとするが、第3期を前後半に分けているので、4期とした。ただ、第4期は沖縄版科挙と官職の売買にしか触れていないので、割愛してもよかったのかもしれない。その他くどい部分、また、詳しく書き過ぎている部分は割愛した。

【本文】
 島津氏の支配は、明治政府になるまでの260年間続きましたが、その期間の政治は4つの時期にわけられます。簡単に見ておきましょう。
 その間注目すべき人物は、儀間真常、羽地朝秀(向象賢、しょうぞうけん)、蔡温(具志頭文若)3人です。薩摩に支配された時代に政治改革を行った羽地と蔡温は、沖縄史上特筆すべき傑物です。羽地と蔡温はともに優秀な学者であり、政治家です。二人とも自分のやりとげた仕事と、将来への希望を書きのこしています。羽地の『仕置』、蔡温の『独物語』がそれです。

第1期 島津の進入から羽地朝秀摂政の改革までの60年間
 ・王家を中心とする貴族や上級士族は、島津の支配という新しい時代にふさわしい改革を行うことも、政治を立てなおす力もなく、ただぐずくずしていた時代です。
第2期 羽地朝秀が摂政として改革を行ってからの70年間
 ・羽地は「節用愛人」という理想を持って改革を行いました。無駄な費用を省き(節用)、農民を苦しめないようにしました(愛人)。また薩摩と沖縄の精神的な障壁をなくすために、日本の文化を取り入れること務め、これに成功しました。
第3期 蔡温の改革から50~60年間。
 蔡温の政治は羽地の政治とは異なる点が多く、むしろ反対の方向を向いていました。蔡温は日本の芸能に対する理解がなく、地方人の舞踊や娯楽などは有害だと考え、御教条をつくって儒数に基づく教育を試みました。
 地方に山林に関する規則を作る一方、商工業を保護して都会の繁栄に力を注ぎました。

第4期 1760年以後
 商工業が発達して首里、那覇の都会が繁栄する中、支那式の公務員試験制度である科挙をまねて科(こう)が行われるようになりました。これによって人材が役所に入るようになりましたが、上級の官職は家柄の良い人に独占されていました。これに対して、財力や知識のある人々の不平・不満が高まり、一方で金で身分を売買することが行われるようになり、それまでのシステムは次第に崩れていったのです。

 日本的・重農的改革を行った羽地と、支那的・重商的改革を行った蔡温。2人の改革にこのような違いがあったのは、それぞれの時代の要求もありましたが、両者の教養や理想の違いが、政治にあらわれたものだと考えられます。
 それでは、この2人の改革を、もう少し詳しく見ていきましょう。


【原文】
 島津氏の支配は二百六十年つゞくがそのあいだの政治を三つの時期にわけて考えて見ましょう。
第一期、島津の進入から羽地摂政の改革までの六十年で、このあいだは王家を中心とする貴族や上の方の士たちは、島津の支配という新らしい(ママ)時代にふさわしい改革を行い政治を立てなおす力なくぐずくずしている時代です。
第二期、羽地朝秀が摂政となり、てきぱきと改革を行い、蔡温が又あたらしい改革をやるまでの約七十年。
 羽地は節用愛人という理想をもち、むだな費用をはぶき(節用)農民になんぎをかけないようにし(愛人)又さつまと沖繩の精神的なへだたりを取りさるために日本文化をながしこむことにつとめ、これに成功します。
第三期、蔡温の改革から明治四年までの百二十年。
 この時期は前期と後期にわかれます。
〔前期〕薬温の改革からあと五六十年のあいだ。
 蔡温の政治は羽地の政治とはちがった点が多く、むしろ反対の方向にむいています。
 日本芸能に対して蔡温は趣味もなく、地方人のおどりやごらくなどはにがにがしいことと考え、御教条をつくり儒数的の説教をこゝろみます。
 山林に関する設定をつくり羽地の開こん政策の行きすぎをなおします。
商工業を保護し都会の繁昌に力をそゝぎ士族を商工業にさそい込み失業士族に生きる道を開いてやります。
 日本的・重農的の羽地と、中国的・重商的の蔡温、二人の政治にかようなちがいが出来たのは、それぞれの時代の要求もありますが、又二人の教養・理想のちがいが政治にあらわれていると考えられます。
〔後期〕(一七六〇年以後百年)蔡温の政策は成功し那覇には士族の金持ちが多くなります。商業はおもに婦人連が受けもち男は多く読書人で彼らの希望は役人になることです。それで久米村で中国式の試験制度を行い、これが那覇役所でもまねられます。このことを科(コウ)といい、これによって人材が役所に入るようになり、家がらによる欠点が多少のぞかれます(第十二章を見よ)。首里の中央政府でもこの制度をおこなうようになります。
 しかし中央政府の重要な位置はまだ家柄のよい人におさえられています。これにたいし、力のある―金力、知力―人々がだんだん不平をもってくるようになり、金で身分を買いとることも行われ封建制度はしだいにくずれてゆきます。
※以下、連続する個所ではないが、ここで書かないと何度も同じことを栗加背うことになるので一応、原文も提示しておく。後日再掲する。

二、羽地の改革
島津支配下の二百六十年のあいだに三人の巨人が沖繩歴史の上にかゞやいています。儀間真常・羽地朝秀(向象賢(しょうぞうけん)) 具志頭文(ぶん)若(じゃく)(蔡温)の三人です。儀間は他の二人にまさるとも劣らない偉人ともいうべき人です。この人の功業は第十一章で話します。
羽地と蔡温はともに一かどの学者であり、高い位置をしめた政治家です。二人とも自分のやりとげた仕事と、将来への希望を書きのこしています。羽地の仕置、蔡温の独物語がそれです。羽地は日本趣味の人で蔡温は中国趣味、時代もちがい教養も理想もちがっています。この二人の政治のとく長は前にのべたが今少しくわしく話しましょう。


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