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アジアと日本の歴史③ マレーシア~銀輪部隊に見た独立への希望

 1991 年、タイとの国境に近い、マレーシア・ケランタン州の州都コタバルに、日本軍の上陸50 周年を記念して「戦争博物館」がオープンしました。コタバル上陸作戦で日本軍の「銀輪部隊」が使用した自転車などが展示されており、小規模なものですが、マレーシアの独立に日本軍が果たした役割が好意的に展示されています。
 日本軍が占領するまでのマレーシアは、英国の植民地でした。1623 年に東インドのモルッカ諸島でオランダに敗れた英国は、その後インド経営に力を注ぎましたが、それが軌道に乗ると、再び東南アジアに目を向けました。1786年にペナン島、1819 年にシンガポール、1824 年にマラッカを手に入れ、本国直轄の「海峡植民地」を構成しました。そして内陸部も保護国化し、1895 年にはマラヤ連邦を作りました。
 英国は、錫鉱山やゴム園の開発に力を注ぎ、中国人やインド人労働者を多数マレーシアに移住させ、今日のマレーシア、シンガポールの複雑な民族構成の基礎を作りました。
 大東亜戦争勃発直後に、日本軍がコタバルなどから攻め込み、あっという間に世界に冠たる大英帝国の軍隊を降伏させたことで、マレー人の目は開かれました。その後反日的な華僑が、日本軍政中に過酷な仕打ちを受けたことは事実です。しかし、日頃私たちが目にする東南アジア史の書物の多くは、華僑の利害にのみ基づいて書かれたものが殆どだということを忘れてはな
りません。現地人の多くは、英国や華僑の支配からの独立を夢見て、積極的に日本軍に協力したのです。
 平成6(1994) 年に、村山富市首相が、例によって日本の過去について謝罪したことを捉えて、ダトゥク・スリ・マハティール・ビン・ムハンマド首相が「なぜ日本が謝り続けるのか理解できない」と発言したことは有名です。それは、ルック・イースト政策(日本の経済成長を範とするマレーシアの近代化政策)を提唱し、その後訪れた経済危機の中にあっても、欧米中心の世界秩序に反発を唱えていたマハティール氏の対日リップサービスではありませんでした。彼は戦時中から日英両国の支配を比較研究しており、謝罪すべきは英国であると考えているのです。
 健全な友好関係を築くため、既に清算された過去に拘泥することは、百害あって一理なしだということをマハティール氏が信念を持って語ったといえるでしょう。それは村山氏の耳には届かなかったようですが。
 我が国の敗戦後、マレーでの植民地支配を再開した英国は、マレー人に「マレー・ビジョン」を押しつけようとしました。それは「どこから来ていても(つまり、中国人でも、インド人でも)マレー人とする」というものでした。これは、日本軍と組んで英国に刃向かったマレー人への懲罰を意味していました。しかし、マレー人はこれを拒否しました。そして英国との粘り強い交渉によって勝ち取った独立(華僑の多かったシンガポールは1961年に分離独立) の後、「ブミプトラ(土地の子)政策」というマレー人優遇政策を採用して、複雑な民族問題に取り組み、一定の成果を上げているのは周知の事実です。

連載第35回/平成10年12月15日掲載

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