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【タブー】日本はかつて多民族国家だった! 縄文、弥生、古墳時代にユーラシア大陸から多くの民族が渡来し同化していった! 嵯峨天皇が編纂させた「新撰姓氏録」によると平安貴族の3分の1が大陸出身者という調査結果が出た!

【日本の成り立ち】日本はかつて多民族国家だった! 縄文、弥生、古墳時代にユーラシア大陸から多くの民族が渡来し同化していった! 嵯峨天皇が編纂させた「新撰姓氏録」によると平安貴族の3分の1が大陸出身者という調査結果が出た!


🟣日本の時代区分

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🟣日本の人口推移

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🟣平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑の「新撰姓氏録」によると、平安時代の貴族の3分の1が大陸 (中国・朝鮮) 出身だった。


平安時代の貴族たちの家系を調査し、記録した「新撰姓氏録」は貴族を下記のように3つにわけている。


●皇別(天皇家の一族の子孫である人々) → 335氏族


●神別(天皇家以外の神を先祖とする人々)→ 404氏族


●諸蕃(中国や朝鮮から渡来した人々の子孫)→ 326氏族

「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「漢」として163氏それぞれ挙げられる。


●どこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。これらの先祖が分からない人たちはどういった人たちなのか??


調査の結果、約3分の1の貴族が「中国・朝鮮から渡来してきた人の子孫」と判明した。


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🟣渡来人とは?

広義には、大陸から日本列島に渡って来た人々を意味する。

歴史用語としては、3世紀から7世紀頃に大陸(中国、朝鮮半島など)から日本に移住した人々(移民)を指すことが多い。

人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い。


現代日本人の遺伝的構成要素の多くは弥生時代以降の渡来集団に由来する。


元来、日本列島には縄文人が居住していたが、弥生時代以降の渡来集団と徐々に同化していったとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている。)


渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。


また、そのルーツに関しては、朝鮮半島、中国の遼河地域、満洲にシベリア大陸、中東諸国などさまざまである。



🟣徐福 紀元前3世紀頃、秦の時代に中国から日本に来た伝説が各地に残る。

徐 福(じょ ふく) 拼音: Xú Fú

生没年不詳

秦の方士。

斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。

別名は徐巿(じょふつ)。

日本に渡来したという伝説があり、日本各地に徐福伝説が残る。


『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 – 紀元前210年9月10日)に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。



🟣日本が古墳時代だった5世紀ごろ大陸から大量の渡来人が日本へやって来た!


「古事記」や「日本書紀」によると、応神天皇のころ(5世紀ごろ)以後に、中国や朝鮮から、多くの人々が日本列島に渡ってきたことが分かる。


●秦氏:朝鮮の新羅の豪族であった「弓月君」は、120県の民(約2万人→諸説あり)を率いて渡来し、現在の京都地方を開拓して、この地で、自分たちの進んだ農業・養蚕・機織などの技術を使って多いに栄え、その後、日本各地に広がっていった。この人々は「秦(はた)」を姓として名のった。別漢字として、羽田、波田、波多など。


●東漢氏:同じころに渡来した「阿知使主」(百済王の子孫と称しているが任那の一部の安羅の王)に率いられた17県の人々は、現在の奈良県の南部を開拓した。この人々の中には、錦を織る人々や,鞍を作る人々、そして鉄を作る人々が含まれ、進んだ技術を基にして大きな勢力を持った。この人々は、東漢(やまとのあや)氏と名のった。


●西文首(かわちのふみのおびと):同じころ、百済王から使わされた「王仁」は漢字を伝え、この子孫の西文首は後々まで、記録官や法律家として活躍した。


●西文首「かわちのふみのおびと」と読み、書首とも書く。

5世紀に朝鮮から渡来した氏族。

首は姓(かばね)。

倭漢氏(やまとのあやうじ)を東文氏というのに対し西文氏とよぶ。

683年(天武天皇12)に連(むらじ)、685年に忌寸(いみき)、791年(延暦10)に宿禰(すくね)を賜姓。

河内(かわち)国古市(ふるいち)郡古市郷(大阪府羽曳野(はびきの)市古市)を本拠とした。

『古事記』応神記にみえる百済(くだら)より『論語』『千字文』を貢上した和邇吉師(わにきし)(『日本書紀』では王仁(わに))は、西文氏の始祖である。 

『古語拾遺(こごしゅうい)』に蘇我麻智(そがのまち)が三蔵を検校(けんぎょう)したとき、秦(はた)氏が物品出納を行い東文・西文氏が其(そ)の簿(ぼ)を勘録(かんろく)したとみえ、文筆を専門としたことがわかる。

学令(がくりょう)によれば、大学生は倭漢氏と西文氏の氏人である東西史部(やまとかわちのふひとべ)から採用することになっている。

6世紀後半ごろ船史(ふなのふひと)氏に圧倒された。古市の西琳(さいりん)寺は西文氏の氏寺である。


続き



以上










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