福沢諭吉ってどんな人?

こんにちは。
前回は細菌学の父「北里柴三郎」について書いたんだけど、今回はその柴三郎を応援した、「福沢諭吉」について調べてみた。
諭吉さんがいなければ柴三郎は”細菌学の父”と呼ばれる功績もなく、もしかしたら人類はまだペスト菌や破傷風でたくさんの人が命を落としているかもしれません。
それでは福沢諭吉について調べてみましょう~

福沢諭吉ってどんな人?

出身地  大阪
生年月日 1835年
死亡年月日 1901年2月3日
日本の文明開化の立役者。慶應義塾大学の創設者でも有名です。 
そして私たちのあこがれの現在の一万円札の顔にもなっています。

偉人あるあるですが、諭吉も小さいころに父親を亡くして貧しい家庭で育っています。
貧しい家の子供はコツコツ勉強するいい子が多い!類にもれず諭吉少年もコツコツ努力してとても賢い優秀な子どもでした。
幼少時代は現在の山口県で過ごしています。

19歳になった諭吉少年は周囲の勧めもあり当時蘭学が盛んだった長崎へ現在の留学をします。
そこで”西洋砲術”と言うものを師匠について学びます。
でも、師匠のもとで弟子として学ぶということは勉強だけではなく、飼っていた犬や猫のお世話までやりながら、もちろん勉強もトップクラスの成績を収めていました。

しかし、ここでもあるあるが始まります。
山口から一緒に留学していた、身分の高い家の息子に嫉妬されて、なんと諭吉少年は、長崎で勉強できなくなってしまい、大阪へ学びの場を移します。

いつの時代にもこういういじめはあったんですね・・・

大阪も長崎に劣らないくらい蘭学が盛んな町。そこでも諭吉はトップの成績を取るんです。
そして、次は優秀な成績で江戸へ留学を果たします。
そこで、慶應義塾大学の前身となる、”蘭学塾”を開きます。
今は3万人を超える学校ですが始まりは3~4人だったそうです。

人の上に人を造らずの原点

独学で英語を学んでいた諭吉にチャンスが訪れます。
幕府の船、咸臨丸(かんりんまる)で渡米できることになりました。

アメリカで見たものは、身分制度がない自由の国。

実は諭吉が育った父の実家の山口には厳しい身分制度があり、その身分制度に苦しめられていました。
身分制度が厳しいところで育ったことで思い出されるのは”坂本龍馬”もですね。
その厳しさに疑問を持った人たちは自由を求めて海の向こうへ夢をはせたのではないでしょうか。

自由と平等に象徴されるアメリカの文化が諭吉の将来に大きく影響します。

その後アメリカ見聞録が「西洋事情」として発表され20万部を超える大ベストセラーになりました。
その後明治五年に「学問のすすめ」の初版が発行され、後世に残るくらい、人々に大きな影響を与えました。

学問のすすめ

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
日本人ならば一度は聞いた事がある言葉ですね。
これは”学問のすすめ”の冒頭の有名な言葉です。

実はこの言葉は諭吉本人が言った言葉ではなく、聞いた言葉だそうです。
この言葉をどこできいたかと言うと、あまり化の独立宣言の一部だという説が強いですね。

諭吉がなぜこの言葉を「学問のすすめ」の冒頭に持ってきたかったかと言うと、諭吉の生い立ちの”身分制度”が影響しているように考えられています。

諭吉の父親も諭吉と負けず劣らず、成績優秀な人だったそうですが
諭吉の父の家柄は身分の低い家。
何度も留学を試みたものの、身分が低いことを理由に断られていたそうです。

生れで上下関係が決まっていた従来の社会制度が許せないという想いが強くあったようです。
それが「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言うことばに強く感銘したのではないかなと思われます。

このことでもわかるように、諭吉はコンプレックスがあったようです。

「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。」

「人は生まれながらにして貴財貧富の別なし。
唯学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
無学なる者は貧人となり、下人となるなり。」

人間は生まれたときは平等だけど、その後の努力によって差がつく。と言う内容の文です。
その他にも
「馬鹿不平多」(馬鹿は不平が多い)
「空樽能鳴」(空き樽は良く鳴る)
など、学ばない人への忠告のような言葉も残しています。

諭吉の功績

明治元年にそれまで開いていた塾を「慶應義塾大学」と命名しました。
「義塾」とは人を育成するといういみがあります。
学問で人を造るという教育の改革を行い、現在の教育制度の礎を気づきました。
その志を表すように、のちに北里柴三郎に支援をして、感染症予防の医学を日本で確立させ、慶應義塾大学に医学部を設立するという経緯に繋がっていきます。
そして、のちに北里柴三郎の元で学ぶのが”野口英世”こうやって福沢諭吉の志が偉人たちを次々と生み出すことへとなっていったのでした。

まとめ

どんなに不遇でも弱音や愚痴を吐かずに努力し続けた福沢諭吉。
学ぶことで自らの運命を切り開ていっただけに、努力せず、不平不満ばかり言う人達を見ると悔しいという想いが、
「馬鹿不平多」(馬鹿は不平が多い)
「空樽能鳴」(空き樽は良く鳴る)
などの文を作ることになったのだと感じました。
私が勉強して感じたことは
”チャンスは誰にでも平等にある”ということを自らが体現して見せてくれた
と言う印象が残りました。

どんなに不遇な状況でもあきらめなければ必ずチャンスが訪れるんだと、勇気をもらいました!
諭吉さんありがとう!!

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