【序章】「COVID-19」

 教授の言葉が終わらないうちに、僕はノートパソコンの画面を閉じた。読経のような講話が一時間半も続いた。興味があり履修登録した現代詩の授業だったが、教授の話がつまらない上にオンライン授業だ。冒頭十分で虚しくなった。

 今自分はひとりでディスプレイと向き合い何をしているんだろう。

 どの授業でも、十分経てば同じ疑問が顔を見せる。

 六畳の部屋の片隅、ブルーライトを吸収しすぎた目を瞼で閉じ、椅子の背もたれに寄りかかる。ずっとうつむいていたから、頭を後ろに倒すと首の筋が伸びて気持ちが良かった。目を開き、天井に走る木目の数を数える。少ししてから気付いた。阿呆みたいに口が開きっぱなしだった。

 カーテンの隙間からは寂しい色をした日の光が差し込んでいた。最近はカーテンを開けるのも億劫になり、一日の空の様子を拝むこともなくなった。カーテンの内側で、世界を感じないまま一日を過ごすことが多かった。今の僕にとって、生きるとはそういうことだった。

 腹の虫が音を上げる。そういえば、今日は朝から何も食べていなかった。リビングを出てキッチンへ。冷蔵庫の中を覗いたが、あるのは卵が一個、個包装のチョコレートが二個、そしてサラダドレッシング。冷蔵庫にあるもので一品作りましょう、という企画のテレビ番組を観たことがあったが、この冷蔵庫のなかを覗いたらさすがのプロの料理人もお手上げだろう。

 エンジンをふかすようにため息をつき、玄関へ向かう。扉を開け、外に出る。鍵を閉めようとして、マスクをしていないことに気が付いた。僕は軽く舌打ちをして、もう一度扉を開ける。靴箱の上にマスクの箱が置かれている。そこから一枚を握り、僕は今度こそ鍵を閉めた。


 君は――


 ああ、またか。
 また思い出してしまうのか。
三年も前の記憶を、つい昨日のことのように鮮明に覚えている出来事を、たったひとりの人物を思い出してしまうのか。この脳みそは、この呪縛から解放されることはないのか。

 僕は唇を噛み締める。誰が見ているわけでもないのに、それを隠すようにマスクを付けた。

 腹の虫がうるさいから、僕は近くのスーパーを目指して歩き出した。空が曇っていた。もしかしたら雨が降るかもしれないと思ったが、引き返さずに降らないことを祈ることにした。

 祈る、という虚しい響きに遣る瀬無くなる。

 僕らは今、祈るしかできないからだ。風のように目には見えない敵により、毎日どこかで命の灯火が消えていく。次から次へと消えていく。どこから吹いてくるのか分からない。だから、僕らはこの風が吹き止むことを祈るしかできないでいる。また世界が元通りになる未来の到来を祈るしかできないでいるんだ。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?