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第六話「真っ暗な林の中で、友達のお姉ちゃんと二人きり」

【前回までのあらすじ】

勇吉(16)に連れていかれた畑跡地の掘っ立て小屋で、26歳の人妻・理沙さんと初めてセックスをした「ぼく」(16)。
男子高校生二人で人妻を責めるという、まるで白昼夢を見ているようなひとときで、終わったあともぼくはしばらく呆然としていた。
そんなことがあった、翌日の夜だった。



 理沙さんとのことがあった翌日の夜だ。
 ぼくは夕食を食べ終えて、居間でごろ寝していた。応接間のほうから、いまは亡き祖父が大事にしていた柱時計の音がした。八回鳴った。
 もう八時か、風呂でも入るかな。立ち上がったところで、玄関の引戸の開く音がした。鍵などかけていないから、急に誰かがやってくることはあったが、こんな時間に珍しい。
「誰か来たのかい?」台所で洗い物をしていた祖母が声をかけてきた。
「ああ。ちょっと見てくるわ」
 ぼくは玄関に向かった。
 待っていたのは陽太だった。お兄ちゃんのお古と思える色あせ気味の黒いTシャツに、ベージュの長ズボン姿で、右手に透明の虫かごを持っていた。
「潤さん、こんばんは」
「お、陽太くん。どうしたん?」
 驚いていると、陽太の背後から「よっ」と勇吉も入ってきた。勇吉は黒のタンクトップに派手な海パンのようなハーフパンツを穿いて、懐中電灯を持っていた。
 当然、昨日のことは二人だけの秘密だろう。
「いまからカブトムシを獲りにいくんです。潤さんも一緒に行きませんか?」
 陽太がずいぶんと楽しそうに言う。
「カブト? どこまで?」
「この近くの雑木林や。潤の家も近くやから、声かけさせてもらったわ」
 勇吉が続けた。
「そうなんや。わかった。行くよ」
 ぼくは二つ返事で快諾した。カブトムシには興味なかったが、わざわざ誘いに来てくれたことが嬉しかったのだ。
「おい、よかったな! 姉ちゃん、潤も行くって」
 勇吉が玄関の外に向かって叫んだ。
「え? お姉ちゃん!?」
「はい。お姉ちゃんもついてきたんです」
 陽太が言う。ただ、ぼくの位置からは千鶴さんの姿を確認できなかった。外で待っているのだろうか。
「潤、一応おばあちゃんにも声をかけておけよ。ちょっと遅くなるかもしれん」
「そ、そうやな。じゃあ、ちょっと待ってて」
 まさか千鶴さんまで来ているとは思わなかったので、ぼくは変にドキドキし始めた。とりあえず祖母に出かける旨を伝えて、玄関まで戻ってくると、勇吉も陽太もいなかった。みんな、外に行ったのか。きっと千鶴さんも……。
 ぼくは急いで運動靴を履いて、外に飛び出した。
 表の庭を抜けたところで、三人は待っていた。真っ先にぼくは千鶴さんを確認した。
 千鶴さんは白のTシャツで、ピチピチのタイトなブルージーンズを穿いていた。この前のスリップ姿に比べるとカジュアルで、爽やかなお姉さん感があった。意外と脚も長くて、すらりとしていた。
「こんばんは」ぼくは千鶴さんに挨拶をした。千鶴さんは「あっ」と一瞬驚いた顔をしたあと、ちょこんと頭だけ下げてきた。照れているような、よそよそしいような、微妙な空気が流れた。勇吉と陽太は無言でぼくたちのやり取りを見ていた。
「ほな、いくか」
 勇吉がやっと声を出してくれた。
 まずは祖母の家の前から続く、段々畑の沿道をのぼった。
 わずかに外灯があるだけで、一人だと夜は少し怖い道だがいまは四人いるとあって、むしろワクワクした。宇宙を彷彿させる空には、京都市内では到底見られない数の星が輝いていた。そこら中からカエルの合唱が響いていた。用水路の水の流れる音もする。
 何よりも夜は土の匂いが強かった。
 肝試しに行くパーティみたいで、いつの間にか隊列もできていた。
 勇吉と陽太が並んで先頭を歩き、続いてぼく、千鶴さんが最後尾だった。
 前を行く勇吉と陽太はずっと喋っていた。どうやら二人は昼間、カブトムシが寄りつきそうな樹木に蜜を塗る仕掛けをしてきたらしい。いまからそれを確認しにいくようだ。
 ぼくは後ろにいる千鶴さんが気になって仕方ない。振り向いて何か話しかけてみようか、ずっと考えていた。だけどなんて声をかければいいのか、わからなかった。
 段々畑を登り切ったところで、黒い魔物が立ちはだかるように雑木林が現れた。
「ここからはほんまに真っ暗や。二人とももっとこっちに来い。懐中電灯一つしかないからな」
 勇吉が振り返って、ぼくと千鶴さんに言った。
「わかった」ぼくは勇吉と陽太の背後にぴったりと近寄った。
 ふわっとバニラのような甘い香りがした。千鶴さんがぼくの真横に来たのだ。お互いの腕が軽く触れあう距離だった。千鶴さんは何も気にしていない様子だが、ぼくの心臓は跳ね上がった。横を向いて千鶴さんの顔も見ることなど、とても無理だった。
 初めて会った時にしてやられた、あのけだるそうな色気にまた飲み込まれそうだ。
 昨日、童貞を卒業したばかりだというのに、ぼくはちっとも女性に慣れていなかった。
「ちょっと勇吉。懐中電灯、こっちに渡して」
 ここまでほとんど喋らなかった千鶴さんが急に声を出した。面倒臭そうなツンケンとした言い方だったが、やっぱり可憐な声だった。
「ああ?」
「あんたが持っていたら、こっちは足元が見えへんやろ。後ろから照らしてあげるから」
 確かにそのとおりで、ぼくも隣でうなずいた。
「まあ。そうやな。じゃあ、潤。持ってくれ」
 勇吉はぼくに懐中電灯を渡してきた。なんだか大役を命じられた気分だ。
 いわれた通り、勇吉と陽太の足元に光を向けた。その先は木の根っこが突き出た獣道で、少し下り坂になっていた。前を行く二人が慎重な足取りで下りていく。千鶴さんの足元も心配だ。ぼくは光を千鶴さん側に向けた。「あ、こら! 潤。こっちを照らしてくれよ」すぐさま勇吉が注意してきた。「ご、ごめん!」
「私は心配せんでええよ」
 千鶴さんが話しかけてきた。思えば今日、初めて声をかけられた。
「あ、はい」
「あんたは前を照らすことだけに集中して。私はあんたにくっついていくから」
「え?」
 なんということだ。千鶴さんはぼくの腕にギュッとしがみついてきた。
 腕が当たるどころか、むにゅりと彼女の乳房の感触まで伝わってきた。大福のように柔らかくて、熱がこもったように温かかった。
「おい、潤。ライト! ライト!」
 ビックリしすぎて、ぼくは懐中電灯を上に向けていた。
「ごめん!」
「頼むで! いまは潤の光だけが頼りねんから」
 自分の姉が真後ろで友達と腕を組んでいるとは知らず、勇吉がおどけた調子で言う。
 そこからしばらく歩いた。ぼくは千鶴さんにしがみつかれたまま、慎重すぎるほどゆっくりと下り坂を進んだ。その一方で、山谷兄弟の足元を照らすことも忘れてはならず、なんだかんだと忙しかった。
「あん、ちょっと待って」
 千鶴さんが甘えるように言う。ずずずっと足を滑らせそうになっていた。
「大丈夫ですか!?」ぼくは手を出したい気持ちを堪えて、彼女が体勢を整えるのを待つ。人のことはいえないが、千鶴さんは山道を歩き慣れていないようだった。ぼくよりも恐る恐るといった感じで歩を進めていた。少し息も荒くなっていた。ハア、ハア、と闇の中で妙に艶っぽい吐息を漏らしながら、わざとではないと思うが、さっきよりもしがみつく力も強くなっていた。
「お兄ちゃん、あの木やったな」前方で、陽太が右方向にある大木を指さしていた。
「おおっ! あれや。よし、潤。ここの木を照らしてくれ」
「あ……うん!」
 千鶴さんを意識しながら、ぼくは指示された場所にライトを向けた。勇吉と陽太はすでに大木の前まで到達しており、熱心にカブトムシがいないか探している。ぼくと千鶴さんは彼らの様子を二、三メートル手前で眺めていた。ライトに集まってくる蛾が鬱陶しい。
「あかん。おらへんわ」陽太の残念そうな声が聞こえた。
「うーん。まあ、ここはあんまり期待していなかったからな。次いこうや」
 勇吉が陽太を励ます。傍目から見ていると、兄弟というより仲の良い友達みたいだった。だったら、ぼくと千鶴さんは……いや、恋人には見えないだろう。
 さらに奥へと進んだ。しかし、二本目、三本目の樹木にもカブトムシはついていなかった。ただ、三本目の木にカナブンが一匹いたようで、陽太が嬉しそうに透明の虫かごに突っ込んだ。
「ねえ、陽太。もうそれでええのと違う?」
 千鶴さんが早く帰りたそうに言った。ふと思った。なぜ彼女はわざわざついてきたのだろう。
「いやや。見たい木がまだ残っているんや。そこが一番の穴場なんや。なあ、お兄ちゃん」
「ああ。あそこはかなり期待できるで。仕掛ける必要がないぐらい、天然の蜜が溢れておったからな」
 勇吉と陽太は結束が強い。ぼくたちを置いて、どんどん進み始めた。「はあ」呆れたようにため息をついてから、千鶴さんは「いこっか」と胸を押しつけてきた。ぼくは自分こそが樹木になっている気分だ。千鶴さんという大きな虫がくっついている……。
「おーい。潤、早くきてくれ」
 勇吉の声がした。近くまで寄ると、勇吉と陽太はシダ植物に覆われた薮の前で待っていた。
「最後の木はこの薮の奥なんやけど、危ないから俺ひとりで行くわ。潤、ライトをくれ」
「ああ。大丈夫なんか?」ぼくは訊ねながら勇吉に懐中電灯を渡した。
「お兄ちゃん、ぼくも連れていってよ。カブトがいたら、ぼくが獲るって約束したやん」
 陽太が駄々をこねた。
「あ、そうやったな。わかった。じゃあ、潤と姉ちゃんはそこで待っていてくれ。陽太、いくぞ」
「おい。ちょっと」
 ぼくは焦った。こんなところで二人きりにしないでくれ。ましてや懐中電灯も持って行かれて、周囲は完全な暗闇と化していた。
 千鶴さんはぼくの腕にくっついたままだ。バニラのような甘い香りがいっそう強く感じられた。体温も、わずかな息遣いも、唾を飲むような音も、柔らかな胸の感触も……。ぼくは鼓動の高鳴りが抑えられない。ぴったりと密着されているから、バクバクと脈打つ心臓の音にも気づかれそうだ。とにかく何か話しかけてこの場を和まさなきゃ、と思うのだが、何を話せばいいのか頭の中がグチャグチャで思いつかない。
 そのくせ体は相変わらす正直で、明るいところで見られたら一発でバレるほど勃起していた。
 昨日はあんな大胆なことができたのに……。
 ぼくはもうオンナを知っているのだ。おちんちんを突っ込んだこともあるのだ。それどころか、二十六歳の人妻をイカせることだってできたんだ。
 自分を奮い立たせようとそう思い込むものの、結局ひとりでは何もできないことを実感した。
「ねえ」
 ひとり悶々としていたところ、いきなり千鶴さんが呼びかけてきたので、ぼくは思わず「は、はい!」と声が裏返ってしまった。
「潤」
 勇吉に呼ばれたかと思うほどそっくりな言い方だった。
「へ?」
「潤、でええんやろ?」
 真っ暗な林の中で、今度は訊ねるように言ってきた。
 ぼくは「あ、あ」と言葉に詰まった。
 千鶴さんから名前で呼ばれたのは初めてだ。しかも、身内のように呼び捨てだった。突然のことに、ぼくは千鶴さんの顔を見ることもできなかった。それでも名前を呼ばれただけで、有頂天になった。
「はい! 潤です!」
 思いっきり薮の中に向かって叫んだ。
「潤はなんで、あんなにあの子たちと仲がええの?」
「へ?」
「不思議やわ。勇吉みたいな悪ガキと付き合うようなタイプには見えへんのに。それに、勇吉も陽太も潤のこと、すごく尊敬しているやろ。なにかあったの?」
 もしかして、千鶴さんはこのことを知りたくて、ついてきたのではないだろうか。そう思えてしまうほど、興味深そうに訊ねてきた。
「あ、いや……えっと」
 ぼくは言葉に詰まった。いまの聞き方からして、千鶴さんはまったく何も知らないのだろう。つまり、勇吉と陽太は川であったことを隠しておきたいのだ。ドキドキはしていたが、その点に関して、ぼくは比較的冷静だった。
「ん?」千鶴さんが教えて、といわんばかりに、ぼくの顔を見ているのがわかった。ぼくはやっぱり千鶴さんのほうを向けなかった。だから、勇吉や陽太がいる薮の奥に向かって、
「えっと、ぼくが小学六年生のとき。一人でぷらぷらと歩いていたら、勇吉と陽太君が声をかけてくれたんです。暇そうに見えたのかな。それから友達になって……」と必死に誤魔化した。
「ほんまに?」
「はい。ほんまです」
 ぼくは珍しくきっぱりと答えた。川で溺れていた陽太を助けたなんて言いたくなかった。ぼくはそういうヒーロー気取りが大嫌いなのだ。それに男として言いたくなかった。告げ口をしているみたいで嫌だった。
 千鶴さんの視線を感じた。まだこっちを見ているようだ。どんな目で見ているのかはわからないけど、ぼくはじっと動かないでいた。
 千鶴さんが一瞬、ふっと笑ったように思えた。それから「そっか」と納得したようにつぶやいた。これでいい、とぼくは思った。そのすぐあとに、「おった!」と陽太のはしゃぐ声がぼくたちのところまで届いた。
「よかった。いたみたいですね」
 ぼくは初めて自分から千鶴さんに話しかけた。


「カブトやなかったけど、クワガタがおったで」
 陽太は戻ってくるなり、透明の虫かごの中を見せてきた。暗くて見えなかったが、すぐに懐中電灯の光が差し込んできた。勇吉がライトを向けてくれていた。
 虫かごにはカナブンよりも小さいクワガタが入っていた。もっと立派なクワガタを想像していただけにぼくは拍子抜けしたが、
「ちっちゃいけど、カブトよりもクワガタのほうが希少やからな。大収穫や」勇吉が勝ち誇ったように言ってきた。
「うん。ぼくもほんまはクワガタのほうが好きねん」陽太が合わせるように言う。二人とも満足しているようなので、ぼくは微笑んだ。
 千鶴さんはまだぼくにくっついたままで、「じゃ帰ろ」と興味なさそうに言った。
 勇吉がじっとぼくを見ていることに気づいた。
 おそらく千鶴さんがぼくの腕にしがみついていることをいま知ったのだろう。ぼくはバツの悪さを覚えたが、どうすることもできなかった。
「さあ、帰るわよ」
 千鶴さんがもう一度、今度は強い口調で言った。そして、ぼくの腕を引っ張りながら、踵を返した。
 帰りはぼくと千鶴さんが前を歩き、勇吉と陽太が後ろからライトを照らすことになった。
 ようやく雑木林を出ると、千鶴さんはそっとぼくから離れた。
 ホッとしたような、なんだか最後はあっけなかったような物足りなさを感じたが、ぼくのTシャツには千鶴さんの匂いが残っている感じがして、ふわふわとした心地は続いていた。
「なあ、潤」
 千鶴さんが離れるのを待っていたかのように、後ろから勇吉が声を掛けてきた。
「ん?」ぼくは立ち止まり、振り返った。千鶴さんは構わず、帰り道を進み始めた。入れ替わるように陽太が駆け出して、千鶴さんの横にぴったりと寄り添った。お姉ちゃんにもクワガタのことを自慢したかったみたいで、虫かごを見せて、嬉しそうに喋りかけていた。
 ぼくは勇吉と並んで歩くことにした。
「潤。このあと、少し時間ある?」
 二人に聞かれたくないのか、勇吉が小声で話しかけてきた。
「え? いまから?」
「そうや。一時間ぐらい……」
「うん。まあ、別に大丈夫やけど」
 祖母には遅くなると伝えてあるから問題なかったが、嫌な予感はした。
「よし。じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」
 勇吉が急にニヤリと笑った。それは昨日、二人で理沙さんとセックスしたときと同じ表情だった。
「まさか……また……理沙さんと?」
 ぼくも小声になった。
「いや、理沙とは違う女や」
「な! ほかにもいるの!?」
 ぼくは驚いて声を張り上げた。前を歩いていた千鶴さんと陽太も振り返ってきた。
 すかさず勇吉が二人に向かって叫んだ。
「なんでもあらへん! 俺、ちょっと潤と大事な話があるから。姉ちゃんと陽太は先に帰っといて」勇吉はそう言うと、絶対逃がさないとばかりにぼくの肩に片手を回してきた。
「ちょっと。勘弁してよ。ぼくはもう……」
 いろんなことが信じられなくて、ぼくはナヨナヨとした声で訴えた。
「ええから、ええから。潤だって昨日、気持ち良かったやろ?」
 ぼくの耳に顔をくっつけるようにして、勇吉がやらしくささやいた。
「いや、でも……良くないよ」
「なにが?」
「女の人をあんなふうに扱うのは……」
 自分だってやることはやったのにぼくは正論ぶった。
「そんなことあるかい。実際、理沙かって喜んでいたやろ。大丈夫やって。それに潤、そんなこと言いながらも……」
「あうっ」
 ぼくはその場で飛び跳ねた。ズボンの上からむんずと勇吉がぼくの股間を掴んできたのだ。
「めっちゃ勃起しとるやん。さすがや。それでこそ男の中の男や」勇吉が感心したように言う。
「違うよ、これは……」
 言い訳をしそうになって、ぼくは慌てて口をつぐんだ。さっきまで千鶴さんに密着されていたから大きくなっていたのだ。そんなことを弟の勇吉に言えるわけがない。
「よし、決まりやな」勇吉がようやくぼくの膨らみから手を離した。
 ぼくはもう何も言えなかった。いや、正直に言うと、興味はあった。どんなに格好つけようと、ぼくだって男だ。
 またセックスができるのか……。
 見ると、千鶴さんと陽太はだいぶ遠くまで歩いていた。
「そういや、潤の家って、チャリンコはある?」
 勇吉が急ぎ足で歩きながら言ってきた。
「チャリンコ? ああ。おばあちゃんの自転車が家の庭にあるよ。おばあちゃんは足が悪くなってから全然乗っていないけど」
「それ、ちょっと借りようぜ。チャリンコのほうが速いからな。二人乗りでいこう」
「ええ!?」
 結局、勇吉の勢いに押されるまま、ぼくは祖母の家まで戻ってくると、こっそりと自転車を持ち出した。いわゆるママチャリで後ろに荷台もついているタイプだ。
 勇吉が颯爽とサドルに跨がり、ぼくは後ろの荷台に座った。
「ほな、いくで~」
 勇吉が力強く漕ぎ出した。タイヤの空気がだいぶ抜けていて、ずいぶんと重そうだったが、そこはさすが勇吉だった。すぐにバランスを整えて、風を切るようにすいすいと漕ぎ出した。
「おおっ!」
 ぼくは純粋に感動の声をあげた。自転車で二人乗りをするのも初体験だった。
 勇吉が自転車の前照灯をつけた。段々畑の沿道に扇型の光が広がった。真夏の夜の生ぬるい風がぼくの頬を撫でた。勇吉の汗の臭いもした。タンクトップのがっちりとした背中には、汗がはりついていた。カエルの声や用水路の水の音に加えて、疾走する車輪の音がひとけのない夜道に響いていた。
 勇吉はひたすらペダルを漕いでいた。話しかけてくることもなかった。だからぼくも黙って、周りの景色を眺めていた。
 段々畑の沿道を抜けて、そこから二車線の通りに出た。車通りのある道路だが、この時間帯だ。一台も通っておらず、勇吉は道の真ん中を悠々と進んだ。道路沿いには一軒の古びた喫茶店があるのだが、当然、営業時間は終わっていて真っ暗だった。
「潤!」
 喫茶店を通り過ぎたあたりで、勇吉が大声で呼びかけてきた。
「なに?」ぼくも風の音に負けないように声を張り上げた。
「お前のお母ちゃんっていま何歳?」
「え?」思いがけない質問だったので、ぼくはすぐに答えられなかった。
「四十歳ぐらい?」勇吉が当たりをつけるように言う。質問の意図がわからないまま、ぼくは計算した。母親はぼくを二十四歳のときに産んでいるから、そう、ちょうど四十歳だ。
「ああ。四十歳やな」
「おお! いまから会う女はな。潤のお母ちゃんより年上やで!」
 車が一台も通っていない道路の真ん中で、勇吉は声高らかに言い放った。
「えええーーっ!?」
「アハハ。まあ、これも経験や。それにけっこうええぞ。四十過ぎの女は!」
 勇吉が立ち漕ぎを始めた。背中を見上げると、夜空に綺麗な三日月が浮かんでいた。



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第一話『妹の告白』

第二話『バラック小屋と美姉』

第三話『下着の脇からちらり』


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