見出し画像

ウメハラになれなかったヤンキーの90年代格ゲークロニクル(前編)・『過ぎ去りし日に向けた花かご』第2回

かつてヤンキーとして野放図な生活を送り、元ヤクザの元で喫茶店店主をやったのち、精神疾患……ビデオゲームメディアで最もハードな人生を歩むライター、池田伸次。彼と様々なゲームと交錯するとき、ビデオゲームからある物語が浮上していく——自伝『過ぎ去りし日に向けた花かご』第2回。

2023。『ストリートファイター6』が発売された。オンラインで数知れないプレイヤーが闘い、世界で大会が開かれ活況を呈した。「ときど」や「翔」といったプロゲーマーのトップが鎬を削るなか、いまも「ウメハラ」は話題の中心にいる。2D対戦格闘ゲームの生けるレジェンド、ウメハラは90年代から今まで、紆余曲折がありながらも注目を集め続けている。

’81。そして自分は、そんなウメハラと同じ世代として、福井県で生まれた。

生まれてからいままで、数多くのビデオゲームを遊んできた。そのなかでも、ゲームセンターで対戦格闘ゲームをやり込んでいた頃は特別だ。ウメハラの自伝的な漫画作品『ウメハラ FIGHTING GAMERS!』を読むと、彼が90年代に10代を過ごしたころ、煙草の煙が覆うゲームセンターにて『ストリートファイター2』で対戦を続けた描写がある。東京のゲームセンターでの出来事だが、その風景は当時、まったく違う地方の福井県で育った自分にも身に覚えがあった。

煙草の煙こそ薄かったものの、当時のゲーセンでたむろするヤンキーのひとり、それが自分だ。

筆者はウメハラと同じく、中学生時代からゲームセンター通いをしていた。あの頃は格ゲーにすっかり浸かりこんでいた。さまざまな戦いを繰り広げていた。喜びも悔しさもたくさん味わった。

あの時代のゲームセンターからスターが生まれるとは思っていなかった。電子音が爆音で鳴り響く中をヤンキーがたまり場にし、何をしているかわからない大人が居座っていた場所。野球やサッカーみたいに華やかな注目を浴びる人間が生まれるイメージとは真逆だ。そこからウメハラが誕生したことは、当時を体験している自分からすれば驚嘆なのである。

ウメハラは当時『ストリートファイター2』シリーズや『ヴァンパイア』シリーズなど、カプコンの対戦格闘にあけくれていたことで知られている。だけど自分がやり込んでいたのはそっちじゃない。ライバルのSNKの対戦格闘だった。

自分は『サムライスピリッツ』や『THE KING OF FIGHTERS』に明け暮れていた。中学に上がったころの94年から、成人を迎えた01年までの7年の間だ。今回はその思い出の一端を語ることができたらと思う。

執筆 / 池田伸次
企画・編集・構成・ヘッダーグラフィック / 葛西祝
監修 / 伊藤ガブリエル

本テキストは最後まで無料で読むことができます。購入後は末尾に本企画の今後についての記載が記述されています。


Beachはビルの一角の店舗を借りるかたちで運営されていた。

’94。中学1年の頃。あの頃のゲームセンターは対戦格闘で盛り上がっていた。筐体はゲームセンターの中に留まらず、駄菓子屋にだって置かれていた。BIGカツやポテトフライが売られている脇でリュウやガイルが殴り合っていた。

そんな時代に自分が通っていたのは「Beach」という店だ。福井県にある、中古ゲームショップも兼ねたゲームセンターだった。店の入り口には、まるで客を出迎えるようにアーケード筐体が左右おのおの6台ずつ並んでいた。

筐体の群れを抜けると中古ゲームの販売コーナーがあった。ファミコン、スーパーファミコンはもちろん、PCエンジンやゲームボーイの中古ソフトが売られていた。店長の机にはPCエンジンDuoRが置かれていた。

店は朝10時から開き、客がちらほらと集まってゆく。この時間なら8人ほどだろうか。ピークは夕方ぐらいだ。学校の帰りに、自分が仲間を率いてBeachに集まっていった。我ら不良少年たちがほかの客に交じりたむろうことで、店の中は十数人くらいになった。

Beachは中古ゲームショップも兼ねていたこともあって、基本的には禁煙だった。他のゲーセンによくある灰皿がなく、店長のみが煙草を吸っていた。

BeachではSNKのゲームが多く稼働していた。仲間とSFC版『餓狼伝説』大会に出て情けなくも1回戦敗退したり、シューティングゲームのランクに挑戦したりした。『クイズ キング・オブ・ファイターズ』で親からパクった5000円を使い果たしてエンディングまでいって見せ、ギャラリーを沸かしたのは快楽だった。

Beachの店長は気さくだった。だいたい30代はじめくらいだろうか。髪は天然パーマで若干薄毛だった。友達はAVに出ていた男優が店長そっくりだったよとからかっては、店長は「アホかお前は」と大人の態度で返していた。だけど、まんざらでもない様子だった。

「お前らアホガキの面倒見るのも大変やわ」と店長はたびたび漏らしていたが、その顔は笑顔だったのだ。みんなが慕っていた。だから特にゲームを買う予定もアーケードゲームを遊ぶ予定もない中学生が、店長目当てによく集まっていた。

青春のゲームショップ、それがBeachだった。

一方Beachでは、当時のゲームセンターにつきものだった軽い暴力沙汰もあった。冬ごろの夜のことだ。事件を起こしたのは仲間のひとりだ。

仲間に「H馬」という人物がいた。1個上の先輩で、連載の前回で言うところの “根明なヤンキー”だ。中学1年生のころに中学の根明ヤンキーとの繋がりで出会った。

H馬は茶色に染め上げた短髪で高身長だった。威圧感もなく、棒みたいにひょろひょろとしていた。根明ヤンキーの中でもゲームをしていたのは彼だけだったので話が合った。「シンジ、『アクトレイザー』の攻略わかる?」ってな具合だ。

そんなある日のことだ。H馬が『ワールドヒーローズ2』のCPU対戦で負けた腹いせに台パンとガラス画面を殴りつけた。

店長にH馬は胸ぐらを捕まれて「お前出禁じゃ!!」と一喝された。にもかかわらず「二度と来るかボケ!」と強気に返していた。H馬は喧嘩が弱かったと思う。そのくらいひょろひょろだった。なのに口答えしたのは、いちヤンキーのプライドだったのだろうか。

当時は彼に大いに同情した。同じゲーマーだったのだから。出禁になったその日はもう1人の先輩とH馬の家に泊まり込んで、彼の自慢のアダルトビデオを見てから『弟切草』を遊んだのだった。真っ暗な部屋で遊び、気付けば眠ってしまっていた。


’95春。中2のころ、自分は『サムライスピリッツ』をやり込んでいた。美男子キャラである「橘右京」を好んで使っていた。

このころは右京で勝つと、家から持ってきたリンゴを中学生カバンから取り出し、がぶりとかじる奇行にも走っていた。右京はリンゴを放り投げて敵と同時に切るという必殺技があって、そこから着想した奇行だった。若さとしかいいようないが、贅沢な時間を過ごしていたんだろう。

「今日も右京おるやん」と、2人組のお兄さんたちに言われた。自分は右京の名で認知されているくらい使い込んでいた。ふたりとも、どこか年齢不詳の気配もする人物だった。おそらく大学生だろう。それぞれ、夜なのにサングラスをかけた短髪のお兄さんと、それこそ右京のように長髪のお兄さんだった。ふたりとも、相当に『サムライスピリッツ』が上手かった。

『ウメハラ FIGHTING GAMERS!』にもゲーセンに年齢が知れない(だが二十歳は超えていることだけはわかる)川村さんなど、(失礼ながら)奇妙なプレイヤーが生息している様が描かれていたが、当時のBeachにも本当にそんな人々がいたのである。

ゲームセンターにはゲームセンターにしかいない人間がいる。全体としては学生が多かったが、明らかな異物としてそんな人々が混じっていた。というか、そもそもゲームで勝つたびにリンゴをかじるヤンキーという自分自身が “明らかな異物”の一人だった。

そんなお兄さんたちに、右京で勝てなかった思い出がある。右京と同キャラ対戦をしてみて太刀打ちできなかった。

お兄さんたちから、勝つための秘訣である中斬りの極意を仕込んでもらったことを昨日のことのように思い出せる。「がんばれよ右京」といってくれたのを覚えている。だがそれ以降の記憶がない。彼らは去っていったのだろう。ゲームセンターには一期一会がある。

だけど、自分は1人で対戦格闘ゲームをやりつづけることに長続きしなかった。そんな時、他人とチームを組んで闘えるSNKの格ゲーが人気を博し、そちらに惹かれていく。『THE KING OF FIGHTERS』(以下、KOF)シリーズだ。


’95秋。ウメハラの漫画でライバルのヌキが『ストリートファイターZERO』を仲間の家で大会の練習しており、ウメハラとの闘いに備えるシーンがある。

自分もそれと似たようなことを「KOF」シリーズでやっていた。格ゲーはふつう一人で闘うものだが、「KOF」は仲間でチームを組んで対戦ができるのが特徴だった。特に「KOF’95」はみんなでやりこんだ。このタイトルから固定のチームを選ぶのではなく、プレイヤーが好きなキャラを使ってチームが組める仕様になったからだ。

自分は、中学の同級生であるT橋とS治とともに「KOF」をやり込んでいた。仲間うちで「KOF」は「ザキン」と略して呼んでいた。

T橋を思い出すと、くせ毛の髪型が目に浮かぶ。とにかく明るいやつでなにかと親身になってくれるし、いい意味でバカをやるので人気者だった。そして仲間内で一番ゲームが上手いやつだった。彼ともよく悪さをした。自分が根暗ヤンキーの先輩からもらった赤い改造制服を貸したりもしていた。

T橋はザキンが抜群に上手く、とりわけ投げキャラのクラークや大門を得意としていた。ある日NEOGEOで教えを請おうとしたときがあったが、「お前には一生無理や」と一笑に付されたことがあった。圧倒的に上手いあいつが言うものだから、真に受けて投げキャラを使うことは辞めてしまった。そのせいか、今も格ゲーで投げキャラは使わない。

S治は身長が180センチと大柄だが、威圧感はなくお調子者で、人気者だった。ゲームは自分と同じぐらいの腕前だ。彼とは「うる星やつら」の話で盛り上がり、親友として長く過ごした。

S治はトリッキーなキャラクターを得意としていた。四方八方を飛び回るチョイ・ボンゲ、巨漢を活かしたパワープレイが持ち味のチャン・コーハン。「シンジに負けるのは悔しいなあ」S治と戦いながらそんなことをよく話していた。よき仲間でもあったし、よきライバルでもあった。


T橋は新聞配達のアルバイトでお金があり、なんと「NEOGEO」まで買って「KOF」シリーズを揃えていた。彼の家で仲間とザキンを研鑽し、ゲーセンで実力を発揮していた。格ゲーを仲間といっしょにプレイできた幸せは、今の自分のゲーム観にも色濃く影響を残している。自分は協力してプレイするゲームが好きだった。のちに、PCでフレンドとチームを組んで対人FPSへのめり込んだりする嗜好の走りだったのかもしれない。

T橋とS治とつるんでザキンをやり込むうちに、いつしかザキンで天下を取るぞといった意気込みでプレイするようになっていった。ザキンはいつものヤンチャ仲間といっしょに研鑽することがなにより楽しかった。

95冬。自分は学校へ行くことが減った。前回にも書いた修学旅行の件が一件落着して以降、登校拒否が加速したからだ。家にはよく教師がやって来て当校を促したが、従うことは少なかった。つるんでくれる仲間といっしょに、「KOF」に腐心した。

格闘ゲームで遊ぶのはいい。対戦でモニターに目を投じる刹那の高ぶり、心身の高揚が生まれある種の”ゾーン”に入る。格闘ゲーム以外は要らない、そんなゾーンだ。負けるとゾーンはもろくも崩れ去る。代わりに”もう一度戦って勝ちたい”という”執念”が生まれる。この作用で格闘ゲームをやり続けてしまう。思えばこの頃が一番そんな思いでやりこんでいた。

同じ年。ウメハラはゲーメスト杯『ヴァンパイアハンター』全国大会に出場していたという。結果は決勝敗退とのことだ。すでに彼はひとつの地域に留まらず、日本中のすべてのゲーマーと闘っていた。

’96。地元にはBeachとは別のゲームセンターがあった。そこでの対戦も旺盛に行われていた。中学3年になった自分たちはBeach軍として乗り込んだ。そこでは異質なタイプの人種、真冬に半袖を着ているおじさんなどもいた。まるで異界に乗り込んだような感じがあって、心が高揚したのを覚えている。

対戦を終えて負けてから相手の動きを盗もうと後ろに回るのだが、見た目が茶髪の小僧でヤンキー丸だしだったので萎縮されることも多かった。よって「強かったっすよ!」などと声をかけて交流を楽しんでいたのだ。

ただ、福井のゲーセン行脚で『ストリートファイターEX』のプレイを行っていたS治とはそのスタイルとのそりが合わず「なに慣れあってるんや」とたしなめられたものだった。あれは彼の中学生特有のかたくなな心が現れていたのだろうと今ではわかる。


’97。自分たちは仲間とBeach三強としてBeach店内の「KOF’97」大会に出場していた。自分はレオナを使い、T橋は大門を使った。そしてS治はチョイ・ボンゲを使う変則チームだった。

対戦相手は大学生風の人物たちが多い。しかしどこか浮世離れした雰囲気を持った人たちばかりだ。何をして生計を立てているのかまったく想像が付かなかった。みな熱気があり、自分たちの試合運びは順調だった。

自分たちが勝つたびに、他のチームから舌打ちなどの反感も買った。しかし臆することなく勝ち続けた。仲間たちとは互いに鼓舞しあっていたが、先鋒の自分が負けるたびにS治とT橋から「シンジはこれやからあかんな」と笑われたものだった。自分も負けじと「やかましいわ」などと返しながら、闘いを続けた。周りから浮いていたチームだったと思う。

そうして、ついに優勝した。

学校の勉強じゃ誰にも勝てない。落第生。教師からは落伍者とまで言われていた自分たち。それが1位になったのだ。その高揚はすさまじく、まるで魔法が掛かったように自分たちに誇りが与えられた。

自尊感情に乏しかった自分たちは、福井県のどこにでもあるようなちっぽけな店での優勝だけで世界一になったように感じたのだ。

だが、今にして思えばこれが格ゲーへの熱が冷めていく曲がり角だった。

→後編につづく

池田伸次 SHINJI-coo-K名義でヒップホップビートメイカー業のかたわらで、フリーランスゲームライターを営む。通称シンジ。
●Twitter:@SHINJI_FREEDOM ●公式サイト
Amazonギフトで書き手を応援しよう!

ここから先は

68字

¥ 500

この記事が参加している募集

心に残ったゲーム

ゲームで学んだこと

『令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ』は独立型メディアです。 普通のメディアでは感知していないタイトルやクリエイターを取り上げたり 他にない切り口のテキストを作るため、サポートを受け付けています。