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私にとって「描く」ことは努力なのか。

【努力】
目標の実現のため、心身を労してつとめること。休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。

これは、今まさにグーグル先生に”先生、努力とは何ですか?”と聞いた時に帰ってきた答えだ。うーん、大学生の時のいわゆる“ごりごり系”だった私が聞けば”先生…!たゆまぬ努力を心がけます…!”なんて陶酔してしまうところだけれど、今の私だと一歩引いてしまう。なんなら圧を感じてしまう。そして、仮にもグーグル先生という存在がが実在するのであれば、その場からすたこらさっさと離れてしまう気がする。

よく、“ほぼ毎日文章を描いている”とか“自炊はしない日がない”というと努力・継続力・行動力の3拍子のワルツのどれかに分類されて誉め言葉を頂くことがある。嬉しさと照れ臭さの入り混じった感情にはなり、行動力と継続力には多少なり「ある」と自信を持って言えるが、努力に関しては相手から見える私の像と自分の行動とは少しギャップがあるような気がした。

私にとって「描く」ことは果たして努力なのだろうか?

確かに、私は朝5時に起きて文章を描き始める時がある。早朝からアルバイトの日は朝3:00に起きて、執筆の題材にしたい料理を作る。その後は、SNSに載せる“映え”をしっかりと意識した写真撮影に没頭することもある。失敗することもかなり多いので2日続けて早く起きて同じ料理を作ることもある。

ここまで文章にして改めて俯瞰的に見るとと確かに「いや、それは努力だろ」とツッコみを受けかねない生活をしているとは思う。だけど、誰かにお尻を叩かれて3時に起きたわけではない。「この写真ちょっと映えていないから、明日もう一度作って写真撮り直さない?」と諭されたことも一度もない。

そう、私をたらしめているのは紛れもなく私自身なのだ。かと言って、別にイヤイヤやっているわけではない。そうでなければきっとここまで続いてない気がする。

本当に、心の底から楽しいのだ。

何を作るか、どんな分量で作るのか。何を買えばいいか。10日で3000円の上限の食費で、足りない部分をどうアレンジしようか。考えているだけで楽しくて仕方ないのである。そして、レシピに記載されている調味料や具材がなくても美味しくできた時には「しめしめ」なんてほくそ笑む。綺麗な写真が撮れたら「どうよ」なんてちょっとドヤ顔になっているかもしれない。

もちろん、一度始めたら、途中でやめることの方が苦手な私だから、何度も自分自身を追い込みすぎて“明日も投稿しなきゃ”とか、“良い文章を描かなきゃ”と思い苦しんでいた時期もある。自分に負荷をかけて完璧を求めすぎて、0か100かの思考になって何も描けなくなってしまったこともある。

だけれど、よくよく考えた時に「毎日投稿しろって誰かに言われたの?」「ちなみにいい文章ってどんなんなの?」と自分に問うと、そこには誰もいなかったし正解なんてあるはずもなかったのだ。

以来、少し客観的に冷めた私を召喚できるようになり「まあ、描きたい時に描きたいものを描きたいだけ描けばいいか」なんて気楽に思えるようになってきた。

もちろん、この先もこの気楽志向が薄れて“努力根詰め根性モード”になってしまう瞬間はあるかもしれない。しかし、少なくとも現時点では。

歩いている時、アルバイトの行き帰りの電車。描くことから少し離れた時にぼんやり何を描くかの輪郭を気づけば探っている。飲食店のメニュー看板からヒントを拝借することもある。何も思い浮かばない日も多々あるけれど、“まあ私の事だしそのうちすぐに描きたい題材が出てくるだろう”なんて気長に思える。

そして、実際数日後には「あれ描きたい!」「早く描き進めたい!」と早めに起きれるようにアラームを設定する。料理動画を見ていて、作りたくなった料理を携帯にメモする。その通りの材料を購入して、いつ作ろうか、どの日の朝なら作れるか心躍らせる。

そう、もはや文章も料理も私の一部なのだ。一緒に早起きをして、一緒に眠くなり、嫌な時はお互い少し距離をとってまた近づく。努力というより、生活・生き方という言い方が近しいかもしれない。対義語ではないのでなんとも表現が難しいのだけれど。

ちなみに、就寝は基本的に20:00~22:00だ。私が早起きできるのは、単に日付が変わる4時間前に私はとっくに夢の中にいるという早寝族が理由なだけで。だからこそ、夜遅くに何かをできる人に私は頭が上がらない。正直、午後以降は頭が何も回っていない。夕飯の味噌汁もよくこぼす。お風呂に入らなくても綺麗になる方法を早く編み出してくれと週に2回は思う。

【努力】が目標の実現のため、心身を労してつとめること。休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。であるならば、私にとって描くことは努力ではない。自分に圧をかけるものでも、誰かに強要されたものでも、出来なかった時に誰かに責任を押し付けるものではない。そうであってほしくない。

私にとって「描く」ことは努力なのか。
結論。努力ではない。

私にとって描くことは「心躍る」仲間なのだと思う。一緒に私を私にしてくれる、そんな仲間なのだと思う。

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