見出し画像

科学的方法の限界:カオス系とフラクタル構造

合理主義的な考え方と、それに相対する考え方との論争は、人類の歴史と共に続いているような根深い問題である。現代においても様々な確執の背景にはこの問題が控えているように感じることも多い。筆者は数理物理学者であり、合理主義の極致ともいえる領域で暮らしている。そのような観点からこの問題について感じていることをまとめて見ようと思う。


数値計算の紹介

合理主義的な手法の代表例といえば論理的・数学的方法であろう。こういった手法は強力であり、いったん数学的に証明された事実であれば未来永劫ゆらぐことのない不変の真実となる。その事だけを考えれば「合理主義的方法の限界」などという主張は全く馬鹿げたもののように感じられるだろう。

では何が問題なのかというと、実は論理的手法で認識可能な自然界の領域は、自然界全体の極めて小さな部分に限られるという事実である。筆者の体感では自然界の無限小の領域しか認識できないと感じている。そうは言っても、有限な存在である人間からすれば、巨大な世界を認識できるように感じられるところが混乱のもとであると思われる。近年の技術的進歩により、数値計算の専門家でなくてもそういった問題を気軽に考察できるようになった。そこで具体的な数値計算結果に基づいて、論理的方法の限界が目で見えるような形でお示ししたいと思う。

振り子に外力$${\cos t}$$と摩擦による減衰を加えただけの、物理としては最も簡単な部類の系を考える(damped driven pendulumと呼ばれる)。数式アレルギーの方々には申し訳ありませんが、きちんと書くと

$$
\theta''(t) = - \sin(\theta(t)) - 0.1\theta'(t) + \cos(t)
$$

$${t=0}$$で原点にいる振り子$${\theta(0) = 0}$$に初速度$${v}$$を与える(つまり$${\theta'(0) = v}$$とする)。そうすると振り子の時刻$${t}$$における位置は初速度$${v}$$にも依存するので、二変数関数$${\theta(t,v)}$$と表わす事ができる。関数$${\theta(t,v)}$$を完全に記述することができれば、我々はこの系を理解したと言うことができる。(厳密に言うとここでのパラメータの選び方はカオス系の一歩手前なのだが、そこにこだわるとかえって意図が伝わりにくくなるように思う。)

初速度$${v}$$を1.85から2.1まで0.025刻みで変化させたとき、つまり

$$
v=1.85,1.875,1.9,1.925,\ldots,2.1
$$

としたそれぞれの場合に得られる運動は以下の通り。

様々な初速度(右端に表示)の運動を比べるとバラバラに動いていることが分かる。横軸は時間。

この図を見るだけでも問題の複雑さを感じていただけると思う。右端にそれぞれの初期値$${v}$$を明示したが、$${t=200}$$において$${v}$$は全くバラバラな並びになっていることに注意されたい。

より組織的に観察するために、$${v}$$を区間[1.85, 2.1]で連続的に変化させたときの$${\theta(200,v)}$$の値を$${v}$$の関数として表示すると以下のようになる(グラフの上下は適当にトリムしてある)。

初速度を[1.85, 2.1]の範囲で動かした時のt=200での位置

この系に関する文献は多いのだが、初心者にとっては興味のあるこの手のグラフはなかなか見つからないので自作したものである。作ってみるとずいぶん複雑なグラフである。しかし本当にすごみが出てくるのはこの次である。今のグラフを10倍に拡大して、区間[2.04, 2.06]だけを描かせると次のようになる。

初速度を[2.04, 2.06]の範囲で動かした時のt=200での位置

先ほどとほぼ同じパターンが現れることが分かる。更にもう10倍して、つまり元々のグラフを100倍に拡大して、区間[2.057, 2.059]を描かせると次のようになる。

初速度を[2.057, 2.059]の範囲で動かした時のt=200での位置

ここでも全く同様のパターンが繰り返される。同じような操作を繰り返すと、拡大するごとに同じパターンが繰り返されるのを確認できる。

ある複雑な関数が、その一部分を拡大すると元と同じ形を示す、という状況が無限の入れ子状に繰り返すとき、フラクタル構造を持つという。今お示しした例は典型的なフラクタル構造となっている。一般にカオス系はフラクタル構造と深く関わっていることが広く認識されている(専門家はポアンカレ断面に関連して議論することが多いようだが、それでは問題の難しさが伝わりにくいように感じている)。

ではある現象がフラクタルであると言ったとき、それは何か進歩したことを意味するのであろうか?上の状況であれば、フラクタル構造とは無限に入り組んだランダムな構造が存在する事を意味している。人間が数学的手段で現象を理解したいと思うとき、最終的には巨大な計算機で近似的に調べていく以外の方法は無いと思われる。ところが現在の問題は無限に複雑な構造を持っているのであるから(つまりちゃんと記述しようとすると無限桁の数値を扱う事が必要となるが、メモリは決して無限大にはできないので入れられない)、どのような技術革新が起こったとしても人間には完全な理解をすることは不可能である。これは原理的な障害であるから、将来誰かが解決するという事はありえない(予め書いておくとAIや量子コンピュータでは解決しません)。ある現象がフラクタルであると称するとき、実際にはこれ以上人間が立ち入れない領域であると宣言しているのに等しい。

こうして人間が持つ最も強力な論理的手法である数学を用いて解析すると、極めて単純な系であってもそこに数学を超えた世界が立ち現れてくるのを見ることができる。現実世界の物理系はもっとずっと複雑であるから、結局身の回りの現象は大部分が数学の範疇を超越していることになる。古代の人々がこうした人知を超えた世界のことを神と呼んだのだとすれば、それは自然な感情であると納得できる。ただし2000年に及ぶ知的活動の結果として、どのようなメカニズムで合理主義的な思考法が破綻するのかを明示できるようになった点は重要である。曖昧な議論だとこじれやすい問題だが、論理的方法の限界点が特定されていれば議論も円滑に進むようになると期待している。

力学の奥底にとてつもない複雑さがあることを発見したのは19世紀末のポアンカレであった。彼の言葉を引用しよう。

これらの2曲線と、その無限個の交点によって作られる図形はいったいどんなものかを想像することに努めよう。・・・2曲線のおのおのは自分自身を切る事は絶対にないが、非常に複雑な行動をして自分自身の上におり重なって、上のたとえの網の全ての結び目を無限回切る。その複雑さは驚くべきもので、私自身もこの図形を引いて見せようとは思わない。

(1899年、ポアンカレ、天体力学第3巻)

色々と勉強しているとポアンカレの偉大さを感じることは多い。

文献案内

この問題は非常に長い歴史のある問題であり、過去にどのような議論が存在したのかを詳細に知ることは筆者の興味の対象外である。文献学者になるのでもなければ、自身の内部に正確な描像を描くことの方が主な目標となろう。しかしいくつかの重要な文献によって筆者の理解が深まったことも事実である。これまで数理物理学を研究してきた人物がインスピレーションを受けた文献のリストというものにも案外職業柄が反映されているかもしれません。

パウリ『科学と西洋思想』

<1955年、物理学と哲学に関する随筆集、pp.145—160>

日本の理工系教育で完全に抜け落ちている側面を扱っている論考なのでぜひお薦めしたい。著者のパウリは偉大な物理学者であり、近代合理主義の代表のように見える人物だが、そのパウリが合理主義の限界に苦しむ様が吐露されている貴重な文献である。日本の理工系教育ではまずお目にかからない内容の一例としては、「近代自然科学の底には、自然を支配するという高邁な意志が流れている、と私は信じている。」自然科学のみならず、それを見本として発達した学問全体について、一見論理的・中立的に出来あがっているように見えても実際にはこの様な思想が強く染みついていることは常に念頭に置くべきである。

モンテーニュ『レーモン・スボンの弁護』

<1580年、エセー4巻

近代科学が黎明期である時期に、すでに合理主義の限界を深く認識していたことに驚かされる。合理主義とそれ以外という基準に照らして古代からの論争が整理されている。その一環で当時の科学者に対する疑念も述べられているし、もちろんモンテーニュ自身の哲学もたっぷりと披露されている。興味深かった点の一つとして、古代からの哲学的論争において混乱の原因が不正確な自然科学的知識にあったと考えられる状況が多くあり、モンテーニュはそういった不規則性をうまくかわして自身の結論(我々はQue sais-je? 私は何を知っているのだろうか?と問うことしかできない)にたどり着いているようだ。モンテーニュの想定とは全く別の方向性において自然科学の有用性を確認できるとも言える。いずれにせよ本書は合理主義を巡る問題を考察する上では避けて通れない一冊だと思う。

中村元『合理主義-東と西のロジック』

<1993年、新装版あり>

せっかくなので日本人の書いたものも一つ。著者はインド哲学の大家であり、上記2冊とは異なる視点から考察されている。それでも部分的にはパウリの論考と重なる部分もあり、比較して読むと興味深い。非西洋人による著述であるためか近代合理主義の限界に深く切り込むといった趣の本ではないため、西洋における合理主義を巡る激しい論争の歴史といった点に関する情報は少なめである。しかし東洋思想の流れが合理主義と関連付けて解説されている貴重な書物である。「合理主義」という概念はいわゆる近代合理主義だけに限定されるものではなく、より多様な理解が可能であると指摘されている。本論150ページ弱の小品だが、それでも何となくの方向性は理解できる。

これらの本では現代の理工系教育では「時代遅れの馬鹿げた議論」と一蹴されそうな内容(パウリは錬金術についても議論している)も多く扱われている。しかし現代の我々は正確な自然科学的知識を持っているので、その後知恵で誤りを補正しながら読んで行くと、議論の要点は合理主義とそれへの異論といった意外なほど現代的なテーマであったことを発見することも多い。2000年に及ぶ知的営為の結果として議論が明晰化された点は非常に大きい。そうして得られた学問的進歩が人類の福祉に大きく寄与した一方で、自然界は科学的方法で認識できる領域をはるかに凌駕しているというのも古代から何も変わっていない。あまり学問を盲信することなく、上手く活用できればしめたものだという程度の謙虚な認識に立ち戻る必要がありそうだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?