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まちの活動が私の子育て(まちの不思議 おもしろ探究日記 #6)

(本記事は雑誌『社会教育』に掲載された記事を転載しています)

いろいろと活動していると、「そんなに忙しい中で、どうやって三人のお子さんを育てているんですか?」とよく聞かれる。
確かに日々バタバタとしていて、日常生活もままならないのが現状ではあるので、どうやってと聞かれると自分でもよくわからないのだが、私にとって、その日々の活動こそが子育てそのものであったりする。

私だけではできない子育てを、まちの力を借りてやっている。
私がやっている活動の多くは、その一番の目的に私の子育てがあるというのが正直なところだ。

私が共同代表をつとめているシェアリング・ラーニングの活動の一つに、子どもたちの自己表現の機会づくりがある。
学校などの集団生活ではなかなか出せない、自分の表現や言葉を見つける機会として、哲学対話やお話遊びからの表現ワークショップなどを地域で開催している。

普段の人間関係から離れて自分を表現するという事は、自分自身を客観的に見る機会にもなり、子どもたちにとっても刺激的で楽しい時間となっているようで、ありがたいことに、本人の希望でリピート参加してくれる子も多い。

今年は、「自分たちの物語を見つけよう!~空想から舞台へ~」ということで、一般社団法人プレイキッズシアターの方々に講師に来てもらい、身体を使って空想の世界で遊びながら、自分の言葉で紡いだ自分たちの物語をつくって発表するという四日間のプログラムを行った。
発表する機会があるとはいえ、そのために物語をつくりこむというよりは、毎回のプログラムの中で物語を広げ、その世界を表現して伝える楽しさを感じてもらうことを目的としたプログラムだ。

三年前、団体メンバーの一人が自分の子どもに表現の世界を体験させてあげたいと、このプログラムを持ち込んできてくれた。
昨年一昨年と、我が家の長男次男も参加し、日々感じている事や考えていること、自分の好きな世界をあふれんばかりに表現してくれ、その姿にとても感動した。

また、そこで舞台表現に強く興味を持った長男は、プレイキッズシアターが主催する本格的な舞台づくりプロジェクトにも挑戦し、さらに心の奥にある繊細な中学生の心の機微を、仲間たちと一緒に精一杯に表現してくれた。
家族でもなく、学校でもなく、一人の個人として自分を表現しようとしている姿は、子どもたちがこの社会で生きていく在り方を模索している姿そのものにも見え、いつも大いに胸を打たれている。

昨年までは小学校高学年を主な対象としていた、この地域で行う四日間のプログラムを、今年は我が家の三男が参加できるように、対象年齢をグッと下げて幼稚園生~小学校低学年を主な対象とすることにした。
もはや隠すまでもなく完全に私の子育てのための活動である。

しかしそうしたことで、これまで対象年齢になるのを楽しみに待ってくれていた友人や、三男の幼稚園の友人たちが次々に参加してくれるきっかけとなった。
また、中学生になった長男がサポート役として参加してくれることになり、ワークショップの中で、さらに複層的な関係性が生まれていくことにもなった。

プレイキッズシアターの合言葉は、「いいね!」である。
徹底的に子どもたち一人ひとりの中にある世界を肯定し、引き出してくれる。

些細な表情の変化や言葉の一つ一つにも注目し、その世界を本人たちの言葉を使って一つの物語に仕上げてくれるので、子どもたちからはどんどんと表現があふれてくる。

今年我が家の三男が表現してくれた世界は、伝説の勇者になって冒険の旅に出る物語だった。

「伝説の勇者が旅に出て、大魔王を倒したところ、その大魔王がダイヤモンドに変化し、それを売ったお金でお城を買って平和に暮らす」という物語だ。

他にも「猫が案内する魔法のキャンプ場で、みんなで大きな大きなマシュマロを焼いて食べる物語」や、「何でもやってくれる、お母さんが助かる時計が売ってるテレビショッピング」など、「ぼくはこれが好き!」「わたしはこうありたい!」という子どもたちの思いが爆発し、舞台の上で表現として展開されていた。

そこには、子どもたちが全力で「自分」を生きる姿があった。
緊張しながらも、精一杯に自分を表現しようとする、このあふれんばかりの表現欲求を、日々の中で私はどれだけ受け止めてあげられているのだろうか。
これは、私だけでは到底できないことであるのを実感する。

さらに今年は新たな取り組みとして、私がファシリテーターとなり、保護者向けの交流プログラムをやってみることにした。これがまた、とてもおもしろかった。
四日間のプログラムの二日目に、子どもたちが遊ぶ会場の横にある広場に集まり、みんなで円になって話をしてみた。
なぜこのワークショップに参加しようと思ったのか、前回参加してみての子どもの様子はどうだったかといったことを共有しながら自己紹介をし、その後に「ここ一~二週間の間に、自分の心が動いてワクワクしたこと」を、三人ずつのグループに分かれて話してもらった。

普段、子どもの集まりでは、どうしても子どもの話が中心となる。
それが共通の話題であり、話しやすく打ち解けやすいので当然の事ではあるが、それでは保護者一人ひとりがどんな人なのかはわからない。
なので、あえて自分自身に焦点をあてた話をしてもらうことにした。

話をしてみると、自分の推しのコンサートに行った話をする人もいれば、不登校の子どもが通うフリースクールにワクワクした話、地域での田植えイベントの話に、子どもの変化から受け取った自分の心の変化を話してくれる人もいた。
また、子どもの事ばかりで自分の事を後回しにしていたという気付きから、新しく始めた挑戦について話してくれる方もいた。
一人ひとりが自分のことをワクワクしながら話す姿に、ワクワクがどんどんと伝播していった。

それはまさに、保護者一人ひとりが持つ世界の表現であった。
家族や会社などの組織から離れて、自己表現する機会が必要なのは、むしろ大人の方なのかもしれないと思わされた。

いろいろと話をする中で、「このワークショップに参加して、「幼稚園が楽しくない」と子どもが自分で気付いてしまって、戸惑っている」と話をしてくれた方がいた。
子どもが自分の言葉で気持ちを表現してくれた嬉しさもあるが、それを親としてどう受け止めるのか戸惑っている、と。
とてもよくわかる話である。
その戸惑いを受け、話を聞いていたみんなが、それぞれの経験談を話してみたり、地域の中のいろんな居場所を紹介したりもした。

子どもの変化はいつも親を戸惑わせる。
というか、子どもの変化はいつも早く、それに親が戸惑いながら対応していくのが、子育てのほとんどである。
特に、今回のようなワークショップでは、変化が大きい子どもも多い。さらに、講師の方々からの細やかなフィードバックで、子どもに対する解像度もグッと上がり、これまで見えなかった子どもの違った面も見えてくるようになる。
それにどのように対応していくのか。

この試行錯誤こそが子育てである。
それを共有できる仲間がまちにいるということは、とても心強いことであると感じた。

こういったやり取りも見方を変えると、一人ひとりが持つ価値観や情報をもとにした自己表現であるように思う。
今回の四日間のプログラムは、子どもたちが自己表現を獲得していく時間の裏で、大人たちも自己表現をしてつながりをつくっていくという、ものすごく幸せな「子育て」の時間であった。

子育てをまちに開き、その機会やそこで生まれる心の機微をたくさんの人と共有し、親も子どもも自己表現していく。
家族だけでもなく、幼稚園や学校だけでもなく、自分の表現がまちに受け入れられていることで、まちの中で生きている感覚を持つことができる。
そうやって、私たちに関わってくれる人がたくさんいるという状態があるからこそ、私は日々子ども達を育てていく事ができているのだと感じている。

そして結局のところ、こういった活動を一番楽しんでいるのは私自身なのである。
いつも私ばかり全力で楽しんでいるので、子どもの世話が足りないのではないかと不安になったりもするのだが、「母ちゃんがそうやって楽しそうにしている姿を見ていると、自分も楽しんで生きていこうと思える。だから、それでいいんじゃない?」と長男が言ってくれた。
もうそれ以上に私ができることは、何もないように思う。


▼ プレイキッズシアター

▼ 雑誌『社会教育』


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