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「花束みたいな恋をした」の感想を、良い作品だったと思う人の視点から

 花束みたいな恋をした、話題だ。怖いくらい話題だ。なんだか突然観に行かなきゃいけない気がして、ふらっと観に行った私から見ると驚くほど話題だ。なんだかそういう感じで話題になるタイプの作品ではなかった気が未だにするのはなぜだろう。

 目に入ってくるのは批判が多い。最初は賞賛が多かった。でも賞賛が増えると対抗するように批判が増える。こればかりは世の常だ。しかも、キツい批判が増える。観に行っていい作品だと思った私たちが「感性の足りない」「凡庸な」「どこにでもいる」「考えの足りない」人間だと刺してくる。映画くらい好きに観させろ!と言うのはお互い様すぎるので、あえて「凡庸な」立場から、何がいいと思ったのか、それから日を追うにつれてその感覚がどうなっていったのかを書いていこうかなと思う。

観ている最中に思ったこと

 これは間違いない。「めちゃくちゃ可愛い」の一言である。二人の関係性が可愛い。特に初期。「よくある」「凡庸な関係性」だから良いのだ。自分を重ねるというよりは、友達の惚気を聞かされている時のむず痒いニヤニヤが、映画の序盤はずっと揺蕩っていた。麦も絹も、言いたいことを結構自由に言えるタイプの人たち。イラストを描く麦と、モノローグになんとなく文才を感じさせる絹。物語は「自分でない」けれど「共感できる」から楽しいのだ。

 それから、私は少しだけ前情報を入れてしまっていて「男性が無意識のうちに少しだけ、女性を踏んでいる」ということを実感する映画だった、みたいなことを言っている人がいたのを見て、どこや!踏んでるのどこや!と思いながら見ていた。これだから前情報は入れない方がいいのだ。ミスった。男性同士の男性間で庇い合う空気感、男性の間ではいいやつなのに、女性に相対すると暴力的になる男性、サブカルチャー界隈の女性を除け者にする空気感。そのあたりは抜け目なく描かれていたように感じられた。

 関係性が「壊れてゆく」様もよかった。壊れてゆく、というよりは乾いてひび割れていく感じだった。元々長く続く関係性があまり得意でない上、おそらく私が絹だったら就活が始まったあたりで「は?金は現状維持のためにも必要でしょ」とか言って100%就職するに決まっていて、その後絶対交通の便のいいところに引っ越すし、それ以前にそうなるまで絶対に続かないと思うので、ここで彼に合わせて就活をやめる絹を見て、そうか、こうやって人々は関係性をつなげていくんだな…と感動したのを覚えている。確かに価値観は一致した方が楽は楽だし。

 ひび割れていく関係性は、まさに「停滞」の象徴で、最初のひび割れのうちに水でも垂らしておけば延命できるところを、麦がことごとく対話を拒否してどんどんひび割れさせていくから、ますます停滞してひび割れが悪化していく、みたいな映像で、もはや軽いホラーだった。対話の重要性を最初に説いたソクラテスはすごい。あの人は対話のせいで嫌われたわけだけど。

 価値観が変わっても、対話があれば、お互いの価値観を「知る」ことができる。これは間違いなく、私たちが生きていく中で何度も学んでいくことだ。学んでは忘れる。対話は面倒だからね。

 とにかく、観終わった直後も、結構気分はよかった。(500日の)サマーを直前に観てたおかげで余計に気分が盛り上がっていた、というのもあるし、たった2ヶ月しか付き合ってない彼との停滞しすぎた状況に見切りをつけたかった自分にあまりにも「ちょうど良すぎた」のかもしれないけれど、なんにせよ、自分のその時の状況も踏まえて、それを差し引かずにめちゃくちゃ良かった、なのは確かだ。何も考えずに観て面白いかはよくわからない。おおよそドラマというドラマは存在しないからだ。

終わった後の違和感①結局はおじさん映画だったのかもしれない

女子の目線も、男子の目線も平等に描かれている、とか、女性像が非常に現代的だ、とか、平凡な二人の日々が淡々と描かれていていい、とか色々あったのではあるけれど、改めて「花束みたいな恋」と言われると違和感がある。

これは本当に私の個人的な価値観なのかもしれないが、最初がいくら楽しかろうと、どれだけ最初は好きだろうと、別れまでの数ヶ月数週間で嫌な気分が溜まれば、別れて区切りがついた後は、相手のことはもうどんどん忘れていく。「あぁ、花束みたいだったな。」とか一回も思わない。忘れて早めに自分の選択を正当化するために「うん、いい恋だったけどあいつはクズだったな」とか友達に散々喋り倒す。胸の中にしまっておくという選択肢はどこにも存在しない。これは70%くらいの確率で男性側の願望である可能性が高い。

友達も観終わった後「もし私が絹ちゃんで、この恋を思い出したとしても『あー別れて正解だったな、私の選択めちゃくちゃ邪魔してたもんなこいつ』としか思わないだろうなぁ、花束みたいって言えちゃうとかどんだけいい子なの?」とか言っていた。少なくとも私の周りのコミュニティと私において、あれは「花束みたいな恋」ではなく、「さっさと忘れていい恋」だったようである。ちなみに私だったら「4年も続いた『生活』はあっさりと終わりを告げた」とかいうタイトルで100%エッセイにします。あれは「恋」よりも「生活」に限りなく近かった。

観終わった後の違和感②女友達はどこへ消えた?

この話、女性同士の友情がほとんど出てこない。男女の恋愛の機微のリアルさを追求している、と言いながら、どこにも女同士の恋バナの様子は出てこないのだ。

絹の周りに出てくる女性たちは大きく分けて2種類。大学や一つ目の就職先の『相容れない女たち』、そして『彼氏のコミュニティの女性たち』だ。

別に、彼氏のコミュニティの女性たちとそんな仲良くならないでしょ、と言いたいわけではない。そうじゃなくて、気のおけないなんでも話せる女友達って大概みんな一人くらいはいるじゃん、という話である。彼氏にはコミュニティがあって、彼女にはコミュニティがない、なんてことは有り得ないだろう。大学に一人くらい、めちゃくちゃ天竺鼠が好きな女の子はいるはずだ。あるいは、高校時代の友達は?彼女は実家暮らしだ。中高の同期は周辺にいるんじゃないの?一人も女友達を持たない女の子、となると途端に「平凡な女子大生」のリアリティが下がる。絹の周りに、本当に「え!?就職もしないの!?そんな奴やめときなよ!」とか「え!?就職しないでフリーターやるの!?悪いこと言わないから就職だけしよ、一緒に頑張ろ」と言ってくれる友達がいて、それでますます頑なになっていく、みたいな描き方だったらまだわかるんだけどな。

なんとなく、男女の恋愛映画の中で「女のライバル」はいても「女の友情」は排斥されることが多い。でも恋愛がなくても、恋愛が終わっても生きていけるのは女友達がいてくれるからだ。それだけは間違いない。「女友達が存在しない」のも、男性目線の物語であることを暗に示しているのかもしれない。

他の人たちが指摘していた「サブカル表面上だけかじってそれっぽいこと言ってる風」とか、「サブカルを知らない人をバカにする風潮」とか、「相手の無知を罪のように扱う」とかは、「なんか大学生っぽいな」の一言で、自分の中では「かわいいな」に落ち着いてしまった。なかなか、男女の「平凡な」恋愛の機微を描く映画というのも存在しないし、上にあげた違和感を除けば、派手な「ドラマ」嫌いで、感情の動きと関係性を主食に生きている私としては、本当に大満足の映画だった。泣きはしなかったけど、ちゃんと「あぁ、私も自分の恋愛考えなきゃな…」と思わされたわけで。

「絹ちゃんなんだかんだ遊んでる説」に関しては、いくつかファクトを並べられても「…?」みたいな顔してやり過ごしてます。絹ちゃんはかわいい。以上。

好きなことだけして生きていきたいよな〜、ほんと。

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