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「二次加害が人を殺すのだ」と言い切りたくなってしまうこんな世の中で

 最近、某女性研究者への二次加害が話題になっている。見ていて辛い。(知らない方は知らないでいいと思うくらい辛いので名前も出さない)何が辛いって、もちろん加害を見るのも辛いし、自分がこんな風に陰口のミームに使われていたらと思うとやりきれないし、研究者のコミュニティってこんなに閉じているんだなというところもしんどいし、でも何よりもまず「自分」がしんどい。自分の中の差別意識が垣間見えるたびに、毎度もう自分を自分から切り離してどこかに捨ててこれないかと思ってしまうのだがそういうわけにもいかない。薄くかたく積もり踏み固められた差別意識から、人はなかなか逃れられない。

 彼女への「悪口」(この悪口は全く別の分野の研究者によるものだった)はとても幼稚で、仲間内で「仲間が嫌いな人の名前を出す」と「みんな喜ぶ」からせっせと悪口を言っている、ようにしか見えなかった。あれを正体を隠して鍵かけた状態でやっていたらどうだったかわからないけれど、実名で、有名な研究者の方だったようで、おそらくフォロワーの中にいたのであろう、様子を伺っていた人に炙り出されて女性研究者本人の元に届き、そして炎上した。というかそれぞれの「陣営」に分かれての合戦みたいなものが始まってしまった。オンライン関ヶ原の戦いみたいになってる。

 こうなると、それぞれの立場を擁護する人たちが相手の陣営を「攻撃」することになる。色々な人がいる。中立の人もいる。中立を装う人もいる。相手を攻撃することに快感を覚える人もいれば、真剣に相手の論理がおかしいからなんとかしてわかって欲しい、みたいな人もいる。本当に色々な人がいる。それは「誰を擁護するか」とか「誰を味方するか」ということとあまり関係がなく、である。というか本当はフェミニズムと表現の自由って両立可能なはずなんですけどね。なぜだかいつもそこ二つが「陣営」に分かれて争っている感覚がある。典型的Z世代とミレニアル世代の間にいる私としては争いごとは死ぬほど苦手なので本当に見ているだけで疲れる。それでも見てしまうTwitterの怖さよ。

 争い、起きるのを見ると疲れてしまうからか、どうしても「どっちもどっち」的な思考に至ってしまう自分の中に差別意識があるなぁと気づくのには結構時間がかかった。例えば私は、その女性研究者が攻撃的なリプライに対して攻撃的に返信するのを見て「だから争いが生まれるんじゃない?」と思ったりしていたし、「そんな言い方しなくても…」と思うことはよくあった。そしてこの考えは、自分が「バズる」までは残り続けていた。

「バズる」と「炎上する」

 Twitterで言葉足らずにパキッと何かを言い切ってしまうとそこそこバズるし、バズった上で炎上するイメージがある。昔意見がプチバズった時に書いた雑感があるので見てもらいたい。

-100いいね
同じようなコミュニティの同じような考え方の人に「賛同の」いいねを受けている感覚。特に批判的な意見も目につかない。(観に行こうとすればあったかもしれないけど。)
-1000いいね
時々引用RTなどで「本当に読んでるの?」みたいな人もいるけど、ほとんどの引用RTが賛同・批判的でも基本的にはきちんと読んでくれている人がいる感覚。あと賛同したいのか反対したいのかよくわからない人もいる。
1000いいね-
いよいよ一人歩き始まった感じ。知らない人からリプライが来始める。反応に迷う。好意的なものにも、非好意的なものにも平等に返事をするのか?それとも平等に返事をしないのか?好意的なものだけに返事をするのか?引用RTは返事を期待していないだろうと個人の経験から感じるのだが、リプライは「応答」である。
3000いいね-
当たり前のように不躾な悪意を向けられていることに苛立ちを覚える。自分が攻撃的な気持ちになるのを感じる。なるほど。こうやって争いが生まれるのか。
同時におそらく3000人の人がしてくれた「いいね」も悪意のあるコメントの前にはなんの意味もなく感じられる。アンチにとらわれるってこういう感じか、とも思うし、それを「どうでもいいもの」として無視しようとすると「あーちゃんと読んで!!頭悪くないでしょみんな!!読み違えたままコメントしないで!!」と思うので、バズりを端からみているのとは全然別の感覚なんだなと思う。側から見ていた時は「まぁ読み違える人もいるよね」と思っていたので。自分に向けられるときだけは丁寧にして欲しい、というのもよくわからない話である。基本的に不躾な人間と丁寧な人間の割合は変わらないわけなので。
5000いいねー
よくわからないコメント・引用RTが増えてくる。喧嘩腰で「そんな言い方するからだろ!」とか言われるんだけど、バズるなんて思わないで喋ってるので…知らんし…みたいな気持ちになるし、そのコメントを投げてくる人たちの言い方の方が喧嘩腰なんだが…となる。面白い。人間っておもしろい。
読まずにコメントしてくる人が、読まなかったことで間違えたのに「私の言い方が悪い」ということにしてくるのもめちゃくちゃ面白い。自分の間違い認めるのってめちゃくちゃ難しいよね、わかるよ。でもこう客観的にみると恥ずかしいものですね。私は自分のミスを認められる人間になろうと強く思います。

 しんどかった。思い出すだけでしんどい。そしてこれを見ると、どうしてあんなにアンチに過剰反応してしまうのかを思い出す。アンチに過剰反応しているのではなく、もうみんなアンチに見えるのだ。引用されたり、リプライされたりするたびに来る通知が、賛同してくれているのか批判しているのか非難されているのかごっちゃになってくる。いつしかTwitterのアプリ自体を開くのが怖くなってくる。

 私の時は「まぁ結局男社会が悪いんだよね(=誰か個人が悪いというよりはみんな悪いよねぇ的な平和な終わらせ方のつもりだった)」とかいう雑なまとめ方をしてしまったからか(せめて男性優位社会とでも書いておくべきだった)、余計に「また女は全部男のせいにして!」みたいなリプライが大量に来て震えていた。男社会と男は違うものでしょ、男社会には女も男も性的マイノリティもひしめき合ってるんですけど、その誰もが少しずつ男社会の維持に加担してるんですけど、みたいなことはツイートだけでは伝わらない。ツイートはそのツイートのみでひたすら一人歩きしていく。1000いいね超えたらもう私はどこにもいなくなる。ツイートにその意見の作者がいるなんて誰も思わないみたいに、私のかわいいツイートはネットの荒波の中で袋叩きにあった。どうして世のため人のためになることがしたい、なんて思えてきたんだろう…この人たちにも資するような何かを本当にするべきなんだろうか…私は私と私を好いてくれる人のためだけに生きるべきなんじゃないだろうか…と思うようになってしまった。人からのネガティブな評価は、信念を揺るがす力がある。

ネガティブな言葉たちと「連帯」の意義

 私は自慢じゃないけれど、メンタルが強い方だと思う。嫌なこと(for example上記のような)があっても、「まぁこんなことなかなか起こらないしまずは記録でもとっておくか!」と仕切り直して、せいぜい行き着いた先は信念を一瞬揺るがされただけであとはのんびりと生きている。ただ、これがもし日常的に続いたら…?と思うと全く違うだろうな、と思う。

 毎日怖くて上手く思考ができなくなったり、攻撃的なリプライにイライラしたり泣きそうになったり、自分は本当に無力で何もできないわかってもらえないと感じたり、好意的な意見が目に入らなかったり。これが数ヶ月、一年、何年も続いたら?珍しいことだから記録するのだ。珍しくなければ記録の対象にはなりえない。

 ネガティブな意見ばかり耳に入るのは人間の性らしい。ネガティブな評価をされるとコミュニティにいられなくなるから、そしてコミュニティにいられないことは食料調達の危機を表すわけでそれ即ち死の危機。だからそちらの情報を重視するようにできているんだと。狩猟採集に適した身体で最高なんですけど、今の世の中には本当に適していないよね。コミュニティを変えたところで死ぬことはないんだもん。多少嫌われたって、ネガティブな評価をされたって生きていけるのに。

 被害にあっていた女性研究者の先生は、たくましくも今日も戦っていて眩しい。でもその先生がいま辛そうなのは、発端になった出来事以上に、彼女を二次加害する人がたくさんいるからだと思う。だからといって、悪口を言った人を「必要以上に」本人に向かって責めるのもまた違うと思うので、むしろ被害者への「連帯」を表明することの方が重要なのかな、と最近思い始めている。

 意見に賛成するのもいいかもしれないけれど、意見は「私」ではない。「あなたは一人じゃない」と思っていることを証明するのも、相手を助けることになりえないだろうか。

  Netflixのオリジナルドラマで、「13の理由」というドラマがある。

 自殺した高校生ハンナが遺したテープレコーダーに彼女の死の「13の理由」が吹き込まれており、そのテープは彼女の死の「関係者」の元に届く。そしてそのテープは、一見彼女と関わりのなさそうな主人公、クレイの元にも届き…という筋書きだ。本当に鬱になるのでメンタルが快調な時に見てほしい。あと私は主人公嫌いです。

 ネタバレになるので詳しくは言えないが、発端は些細なことであっても、周囲に「味方がいない」と感じてしまうその状況自体が、人から生きる活力みたいなものを奪っていくのだなと感じる。そして、彼女が死ぬ前にテープを吹き込む活力だけは持っていた、というのも少しリアリティがある。

 心理学を少しかじっていた時、こんな話を耳にした。自殺する人は、少しだけエネルギーが戻ってきたタイミングでその選択をとる。というのも、一番暗闇に沈んでいる時には「死ぬ」という選択肢を思い描くエネルギーもないから。「あぁ、そうか、死ぬという選択肢があったな」と思えるようになった時に死を選ぶのだそうだ。

 別に誰が死ぬとか鬱になるとか言っているわけではないのだけれど、ただどこかで何か取り返しが付かなくなってしまう前に、せめて連帯したい、連帯を表明したい、あなたは一人ではないと言い続けたいのだ。何の役にも立たないかもしれないけど、それだけで過去の私が少しだけ救われる気もする。

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