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映画評論詩感想文

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記事一覧

「イメージの本」

「イメージの本」

全てのイメージは撮られてしまったのではないか。または、観られてしまったのではないか。
全てのテクストは書かれてしまったのではないか。または、読まれてしまったのではないか。
という強迫観念のようなものに苛まれ続けるジャン=リュック・ゴダールが四年振りに撮った?新作は、とにかくイメージの氾濫としか呼びようのない現象として(認識というよりは現象として)体感された身体的な営みだった。
テクストを痰が絡んだ

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「魂のゆくえ」

「魂のゆくえ」

映画館の暗闇が醸し出す閉塞感が好きだ。
その閉塞感から逃れるために、私たちは集ってスクリーンを見つめる。スクリーンの奥にある解放という錯覚。
この映画の暴力は内にこもりこもったままエンディングを迎える。
同じポールシュレイダー脚本のタクシードライバーにおけるトラヴィスの暴力衝動のようなものは一応発散されたわけだが、この映画における主人公の息子の死というトラウマからの解放=暴力衝動は徹底して自己へと

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「シン・ゴジラ」

「シン・ゴジラ」

なんちゅう残酷で皮肉な映画。
スクラップに次ぐスクラップで、国家をぶち壊された後にやっと民族としてのプライドが立ち上がってくる。
誤解を恐れずに言ってしまえば、震災の時に湧き上がってきた底知れぬ勇気、覚悟のようなもの。
とりあえず、ゴジラを固めた。
恐いのは、固まったゴジラが再び動き出し、街を破壊し尽くす姿が待ち遠しくてしょうがない私たち自身だ。

「浮草」

「浮草」

旅回りの一座が「そこにいることを強いる共同体」として描かれており、ということはやっぱりこの映画も家族の映画なのだ。
旅回りの一座という疑似家族の緩やかな解体。
緩やかなつながりの再構築。
そこからいなくなろうとする人中村鴈治郎。
そこからいなくなるということが小津映画では家族という共同体の解体とイコールなのだ。
そして、どこに行こうとも必ずそこに帰ってくるという約束がつながりだ。
そこからいなくな

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「芳華-Youth-」

「芳華-Youth-」

青春を諦めない映画だ。
戦争という祝祭、青春は大合唱の後の静けさをもって幕を閉じる。
青春を引き延ばそうとすればするほど、彼らは傷ついていく。
腕を失う、心は壊れる。
それなのに、私たちは青春を諦めない。
あの一瞬の輝きを永遠にと思うから、私たちは映画をつくるのだ。

青春という純粋無垢な時間に突如異物として入り込む、血や泥や焼けただれた肌、食い込む銃弾。
青春にドロドロの赤黒い血色はいらない

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「勝手にしやがれ 強奪計画」

「勝手にしやがれ 強奪計画」

純粋な映画というのは、純粋な行為と同義でそれなら純粋な行為とはなんだという話になるのだろうが、純粋な行為とは自身が何故それをするのか知らない運動であり、第三者から見てもその人が何故それをするのかわからない運動である。
映画は純粋な行為が、そのままアクションとして提示されてさえすれば良いのだ。
物語の辻褄や、登場人物の心理などはどうでもいい。
この映画で「何故それをするのか知らない」ということが画面

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「斬、」

「斬、」

塚本晋也は人と人ならざるものとの境目を撮りつづける作家だ。
人がモノに変わる瞬間を撮り続ける作家だ。
それは、人の体から手足がちぎれる瞬間であり、内臓が飛び出て血しぶきの上がる瞬間だ。
そして、血がダラダラと流れ出て人間が絶命する瞬間、私たちの体はまるごとモノとして世界に投げ出される。
そこに暴力が介在しないわけがない。
極限の暴力が場を支配する時、そこに存在する人はモノに変化せざるを得ない。

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「セーラー服と機関銃」

「セーラー服と機関銃」

長回しは鑑賞者を発狂させる。
その圧倒的な情報量によって。
同時多発的に何かがそこかしこで起こり、スクリーン内では何もかも平等で、悲しみや喜びも、生や死も平等で、血などただの赤い絵の具に過ぎない。
機関銃が火を噴く時のスローモーション、「カイカン」という音と薬師丸ひろ子の開ききった瞳孔がスクリーン前景にせり上がってきてゾッとする。
紛れも無い暴力だと思った。
長回しのゆったりした時間の流れを遮って

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「バーニング」

「バーニング」

軽トラに乗るリトルハンガーとポルシェに乗るグレートハンガー。
服を脱いで裸で踊る。

満たされない飢餓感を紛らわす為のオナニー。
オナニーほど人間にとって悲しい営みはない。
満たされるはずのない飢餓感を一生懸命埋めようとする健気な姿。

軽トラとポルシェ
路地裏で二人でタバコ吸う、金持ちたちの整理された街を背に二人でタバコ吸う
タバコと大麻
ポルシェが田舎の寂れた家に侵入してくる時、韓国の

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「運び屋」

「運び屋」

老いはイカレジジイから血と暴力と運動を奪ったが、イカレジジイから映画を奪うことはできなかった。
そして、これからもできなそうだ。
死ですら、イーストウッドから映画を奪い去ることはできないだろう。

イーストウッドは一直線の物語から、ストイックに離脱し続ける映画作家だ。
そう。文字通りストイックに。
そこには常に暴力と血が同居していた。
それを象徴するのが、トゥルークライムのクライマックス、死の

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「ギルティ」

「ギルティ」

私たちは、複数の人々とともに席に座って、スクリーンを観るわけだが、その時私たちは不思議なことに純粋に孤独な個人となる。
何かを観るという行為そのものが、個人的な体験であるからだ。
同時に、何かを聴くという行為も個人的な体験だ。
どんなに集って何かを観たとしても、何かを聴いたとしても、その映画が語りかけているのは私に向かってであるし、その音が語りかけているのは私に向かってなのだ。
そんなことを劇場の

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「岬の兄妹」

「岬の兄妹」

手持ち花火をやったことある人なら、誰でも思ったことがある「線香花火ずーっと点いててくれないかなぁ」というあの儚い気持ちを映画でやってくれてるなと思った。
歩くシーンが印象的な映画で、その歩くという映画的な運動そのものが、直前のシーンの不幸を反転させてしまう。
または、直前の幸せを引き延ばしてしまう。

北野武の「その男凶暴につき」における主人公が延々と歩くシーンは、演出的効果が全くないという点

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「トゥルークライム」

「トゥルークライム」

物語という意味を映画に付与されることを、極端なまでに嫌がるのがクリントイーストウッドなのだと思う。
一見、黒人差別を取り上げた社会派映画のように見えるが、そのようにこの映画に意味を付与した瞬間にこの映画は映画ではなくなってしまう。
主人公は物語という意味から逃れるように、自分の「鼻」だけを頼りに行動していく。
彼の「鼻」が突き止めた「ホントウ」のことは一切の物語を拒否している。
差別される哀れな黒

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「寝ても覚めても」

「寝ても覚めても」

やっぱり私たちは、演技しないと生きていけない。
女は女であることを演じるし、男は男であることを演じる。
「私亮平のこと好きやで」
と何かを確認するかのように、定期的につぶやく朝子の気持ち悪さ。
彼女はそれを言うことで、女をうまく演じることができているか亮平に無意識に確認しているのだと思う。

朝子が猫に餌をやってるところを、亮平が階段の上から見ていたら、不意に朝子と目があってしまうシーン。
普通

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