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誰も求めてないフリル

※これは三年前に書いた記事です。

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私の作る洋服にはフリルがよく登場する。

フリル、リボン、ひらひらのワンピース。



今なら心躍るこれらも、
幼少期の私には世にも憎たらしい拘束具だった。

子供の頃、私は女の子らしいものが大っ嫌いだった。

フリルもリボンもワンピースも、なぜそんな邪魔くさいものを女というだけで着なくてはならないのだと思っていたし、兄と見ていたアニメでは常に女の子は男の子に守られる側の弱々しい存在で、「女の子」と言われるだけで馬鹿にされてるように感じていた。

とにかく徹底的に女の子らしいものは身につけないようにし、キティちゃんやマロンクリームちゃんに夢中になる友人を軽蔑し、自分は絶対女の子なんかにならない!と心に誓った。

しかしこの誓いはことあるごとにつぶされた。

ピアノの発表会や家族写真の撮影、保育園の卒園式や小学校の入学式...

大事な機会に私に与えられる服は、いつも女の子らしいジャンパースカートやワンピース。

まったく自分の趣味でないそれらは、幼少期の私には拘束具でしかなかった。私は着せられるたびにヒステリックに泣き叫んだ。

あらゆる大人が、号泣する私に「女の子らしくてかわいいよ、似合ってるよ」となだめようとしてきたが、
私は私の意図しない形にひん曲げられた姿を褒められてもちっとも嬉しくなかったし、むしろ屈辱的だった。

小学校くらいまでこの、アンチスカート・アンチお洒落な、強固な反ガーリー主義は続いた。

しかし中学校に入学し、私の好みはみるみると変わっていった。

zipperやcutie等の個性的な雑誌や嶽本野ばらさんの小説にハマり、ロリータや古着ファッションに憧れた。

もちろん中学生でお金はなかったけど、街で買った安い古着をリメイクしたりして、自分なりに個性派ファッションを楽しんでいた。

白い目で見られることもあったけど、「みんな、わかってないんだなー」と自分に言い聞かせていた。

むしろ、中学生なのにこんなお洒落を知ってるなんてすごくない?私って才能あるかも?すごい人になれるかもしれない!と根拠のない自信があった。

しかし、高校に入るとそうはいかなくなった。

中学では無限の可能性を信じていた自分も、高校では自分がいかに無能な人間かということを思い知らされた。

まず勉強に追いつけない。人とのコミュニケーションも苦手。

男子の多い学校で、容姿を見定めされる機会が増え、常に自分がどう見られているか気になっていた。

理想の自分と現実の自分があれよあれよと離れてゆき、そんなとき鏡を見たら、とんでもなく醜い化け物が映っていた。

こんなもの、絶対世間にさらしちゃだめだ!と思った私は冬でも夏でもマスクを着け(今思えば時代先取り)、あえて野暮ったい、無個性な服を着るようになった。

これは、新しく自分が自分に着せた拘束具だ。

その後なんとかギリギリの精神状態を立て直し、無事就職決まった後も、まだ拘束具は外れていなかった。

かろうじてマスクを外すことはできたけど、お洒落をする勇気はない。

たまに監視の目を掻い潜り、可愛めのワンピースを着て街に出ても、人と目が合うだけで不安になる。
鏡を見るだけで申し訳なくなる。
罪の意識に耐え切れず、すぐさま家に戻って拘束具に着替え、唯一の趣味であるアイドル動画でぎゅうぎゅうに締め付けられた心を癒していた。

あるとき、友人にそのアイドルのライブに誘われた。

もちろん「こんな私が行っていいのか...」という気持ちが浮かんだけれど、こんな田舎に好きなアイドルが来る機会なんてまたとないし、これはやはり行った方がいいと思った。

足を運んで、びっくりした。

老若男女問わずカラフルな格好やコスプレをしていた。

グッズのTシャツを「派手すぎるんじゃないか...」とビクビクしながら着ていた私なんて空気に等しいほどにみんな派手派手だった。

ライブに通うたび、自分ももっと推し色で全身固めて楽しみたいと思うようになった。そしてライブに着ていく派手な洋服を買うために訪れた、とあるファンシー系のお洋服屋さんで、私の常識はふわふわと崩れていった。

「なにこれ!!!可愛い!!!」

幼少期の私が見たら号泣するであろう、ふわふわ、ひらひら、ファンシー、ガーリー、が溢れかえったその店内は、20代の私には衝撃的に可愛かった。

なぜこんなに可愛いものを忌み嫌っていたいたのか、わからないほど釘付けになった。

あの時拘束具だったフリルは、自分で装着するとこんなに愛しいものだったのか。
その瞬間フリルは拘束具ではなくなった。自由に導いてくれたのだ。

だけどそれは、
拘束具であったあの時代と対照的に、笑われることも多かった。

大人なのに…
コスプレ?笑
モテないから止めた方がいいよ。

などなど…

そして分かったことがある。
世間が着せようとする拘束具は、
常に形を変えているのだ。

小さな女の子にはこんな形、
女子中高生にはこんな形、
20代なら、30代なら、というふうに。

それは世間の流れや個人の思想によっても変わる。

他人にまんべんなく受け入れられるには、
求められてる形を常にサーチし、それが似合う心体に整えないといけない。

拘束具を装着すると、私は必ずはみ出した。

そしてはみ出した部分を憎み、切り落とそうとし、
何とか装着できまいかと悩み苦しんだ頃には、心身共に疲弊していた。

そしてこんな苦労の跡は、別に誰も見ていなかった。

フリルは、そんな私の元に、
拘束具としての役目を終えたガラクタとして登場したのだと思う。

フリフリ、ヒラヒラのガラクタは、
自分の体に装着するととんでもない武器になった。

だれかを倒せるわけじゃないけれど、
何の役にも立たないけれど、
それを着ると無敵な気持ちになれた。

「だれもそんなの求めてないよ」が
栄光ある言葉になるように、
これからもガラクタを寄せ集めて武器を作っていきたい。

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