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#25:キングオブ弟 豊臣秀長 Part2

皆さん歴活してますか?
歴史探偵Qです。
今回も前回に引き続き天下人「豊臣秀吉」の
弟:豊臣秀長のpart2をお送りします。

前回のpart1をまだ見てない方はそちらも
ご覧いただけると嬉しいです。

今回は、本能寺の変が起き天下人へなっていく
秀吉をどう秀長は支えていったのか、
そして秀吉との関係はどうなっていったのか?
お伝えして参ります。

■本能寺の変後の秀長
1582年:本能寺の変
その時、秀長は兄:秀吉と共に中国攻めの
従軍しており、信長が到着し毛利攻めが完了
するようお膳立てしている途中でした。

すると、信長が明智光秀に討たれたとの
報せが入る。その後の話は皆さんの方が
詳しいかもしれませんが…
秀長の流れで言うと、中国大返し→ 山崎の戦い
→ 清洲会議→ 賤ヶ岳の戦い→ 小牧・長久手の戦い
と激動の日々を過ごしていきます。

さらに戦いだけでなく、秀吉が出世し
天下人へ近づくのつれ秀長も豊臣軍No.2として
軍の運営や諸大名との連携を一手に引き受け
秀吉が天下統一へ邁進できる環境づくりを
していました。

しかし、そんな秀長に病魔が襲います。
紀州征伐では副将を四国攻めでは秀吉に代わり
総大将を務めましたが…
この頃から体調を崩しがちとなり、有馬温泉に
湯治に行ったと言う記録も残っています。

その後、1587年の九州征伐には参加し
日向方面攻めの総大将として出陣し九州平定に
尽力しますが、1590年の1月から病が悪化し
小田原征伐には参加できず…
畿内の留守役に任じられますが翌年の1951年に
秀長は亡くなりました。

■豊臣秀長が長命だったら?
 皆さんも豊臣一族の話の中で
「秀長が長命であれば豊臣政権はもっと続いていた」
と言うIFの話を聞いたことはありませんか?

私も今回の豊臣秀長や前々回の豊臣秀次を
調査する中でこのIFの話を考えていましたが
私が出した結論はNOです。

確かに豊臣秀長は秀吉を支え、NO.2としての
実績、経験、人望もあり豊臣政権を盤石に
してくれるだろうと思いますが…

皆さんもご存知の通り、秀吉は千利休を殺し
甥の秀次も死に追いやりました。
晩年の秀吉の行動は制御できないものが
あったと思います。
実際問題秀長が生きていたとしても、
石田三成を中心とする奉行衆と秀長や利休など
新旧秀吉の側近の政局争いが起こっていたと考えます。
それ位、秀吉の権威は基礎が出来ないうちに
大きくなってしまったのだと私は考えます。

また、秀長と秀吉の関係も少しずつ歪みが
生じていたと思います。
ある記録には、秀吉が秀長に対して「節約が過ぎる」と
言う注意の書状を出したと書かれています。
また紀州征伐の時には兵糧を味方に割高で売ろうとした
のを秀吉に止められたり、木材を大阪で売り捌こうとして
秀吉に見つかり、新年の挨拶を拒否されたりしました。
比較的仲の良かった兄弟でしたが晩年、少しずつズレが
生じて来ました。
このことに関しても秀吉の派手好き、お金使いの荒さを
考えると秀長が節約しなければならないのかな?
と秀長に同情する余地はあると思いますが…

■まとめ 
 前回のpart1、今回のpart2で
少しは豊臣秀長の魅力や人間性などが
わかっていただけたと思います。
秀長は本当に魅力的な人物で、
今まで何度も主君を変えていた「藤堂高虎」が
秀長には死ぬまで仕えたいと言わしめたほどです。
また、当時寺社勢力全盛期の大和国(奈良県)を
大きな問題もなく治めていた秀長の実務能力は
もっと評価されてもいいと思います。
だって、元々は百姓なんだから!

調査報告完了
次回もご覧いただけると嬉しいです。

 



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