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「概説 静岡県史」第127回:「翼賛壮年団の結成と翼賛選挙」

 昨日は節分でしたが、豆まきって子どもが小さいころはやりましたが、最近はすっかりやらなくなってしまいました。こういう行事って各家庭レベルではだんだんやらなくなっていくんでしょうね。ただ、きっと孫ができると、再開するのだと思いますが、そうすると、我が家で豆まきが復活するのは、10年以上先かなぁと思いつつ、いり大豆が大好きな私は、一人ポリポリ豆をつまみながら、酒を飲む節分でした。
 それでは「概説 静岡県史」第127回のテキストを掲載します。

第127回:「翼賛壮年団の結成と翼賛選挙」


 今回は、「翼賛壮年団の結成と翼賛選挙」というテーマでお話します。
 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まると、県内各地で先勝祈願祭、街頭行進、米英打倒の市民・町民大会などが次々と開催されました。開戦への複雑な思い、不安が、集団的な興奮の組織化によってかき消され、緒戦大勝利の宣伝の中で、中国における戦争の継続と、アジア太平洋全域におよぶ戦線の拡大が国民に受容されていきました。この興奮の中で、県内で10月ごろから始まっていた翼賛壮年団(以下、翼壮)の結成が、一挙に進むことになります。
 翼賛壮年団結成を推進したのは大政翼賛会の精動化に失敗した軍部ですが、ナチスの親衛隊的な少数精鋭の政治的中核体結成が狙いでした。これに旧産業組合青年連盟系、革新右翼ら新体制推進派が呼応します。翼壮結成に先立ち陸軍省軍務局は、陸軍の主導権を確保すべく在郷軍人会員が翼壮に多数入団し中心となることを期待して兵務局に対し、連隊区司令官から在郷軍人会各分会に対し「在郷軍人を翼壮に入団するよう要望させよ」と要求しました。これに対し兵務局長の田中隆吉は、「個人が自由意志で入るのは差し支えないが、命令や要望は軍人の政治関与につながる」と拒否しましたが、このような思想を背景に大日本翼賛壮年団が42年1月に結成されました。
 県の翼壮創立準備会は11月に結成されます。翼賛会支部役員と県官僚は、再び盛り上がった「強力なる新体制確立」を期待しつつ、組織方針討議、役員人選を進めます。組織形態について「静岡県翼賛壮年団結成要綱」で、「本団は青壮年の自発的熱意によって結集する愛国的動詞の精鋭組織」であると規定しました。翼壮は他の団体と異なり男性だけの運動体で、団員数は当時の翼賛会推進員の約7倍、8万人を目標とし7万人を獲得しましたが、この数は対象となった21~45歳男性人口の1/3に相当します。静岡市の場合、団員の獲得は推進員が中心となり、大日本産業報国会・商業報国会団員などから1人につき7人の割合で獲得しました。推進員が同志的連携を持たず、翼賛会会員全体に上からの指導を行ったのに対して、翼壮は地域や職域で自発的な実践行動を示すことで翼賛運動の推進力になることを目指しました。結局、翼賛会推進員は翼壮の中心的活動を担う存在となり独自性を失っていき、推進員制度は43年5月に廃止され、従来から壮年団運動組織であった県壮年団協議会は解消して翼壮に合流しました。
 静岡県翼賛壮年団長には柴山重一陸軍中将が指名され、理事には39年の県会議員選挙で初当選した駿東郡選出の永井保、静岡市選出の小山金作、森口淳三ら10人が就任しました。42年2月24日付け「静岡新聞」によると、柴山団長は団の運営方針について「特に戦争に再び親英米派の動きが起るやうなことがあっては、この長期戦を戦ひ抜くことは出来ない。壮年団は米英思想を飽くまで排撃、日本精神発揚への国体の明徴を期さねばならない。壮年団の究極の使命もここにあると思はれる」と述べています。県翼壮は3月16日に結団式を行い発足しましたが、それに先立ち市町村翼壮の役員が団長から指名され、市町村の翼壮が発足しました。
 翼壮の出現は、県翼賛会の人事に大きな影響を与えました。翼賛会県支部は1月に「翼賛精神に透徹した少壮有為の人材」を確保するということで、本部から役職員の整理を指示されていました。2月の理事の人事では、鈴木庶務部長、柴田組織部長が退き、金子彦太郎県会議員をはじめ15人の新理事を任命しました。そのうち、柴山、永井ら4人は県翼壮との兼任で、さらに永井は庶務部長および組織部長も兼任しました。県当局は鈴木と柴田の留任を懇願したといわれますが、翼壮系の勢力が翼賛運動の中枢を占めたわけです。県協力会議議員も2/3が更迭され、森口に加えて加藤弘造も県青少年団副団長の肩書で協力会議に入りました。県協力会議議長の座は引き続き山口忠五郎が確保しましたが、8月の第3回中央協力会議県代表からは外れました。
 1941年(昭和16年)2月、「現下の情勢は困難であり民心を選挙に集中させることを許さない」という理由で「衆議院議員ノ任期延長ニ関スル法律」が提出され、翌年の3月31日までに任期満期となる府県会議員と市町村会議員の任期についてもこれを延長する「府県会議員、市町村会議員等ノ任期延長ニ関スル法律案」も同時に提出、いずれも原案どおり可決され、2月24日に公布され即日施行されます。そのため、第21回衆議院議員選挙は1年遅れの42年4月30日に実施されました。この選挙は、政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われ、実施されることとなり、2月23日には元首相の阿部信行を会長とした翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数と同一の466人を選考・推薦しました。静岡県選出の衆議院議員太田正孝も同協議会のメンバーでした。
 静岡県でも3月に選挙粛正委員会を組織し運動の具体策を練り、県庁内に60人という大掛かりな選挙指導部を設置し、地域指導体制を整えました。3月20日には尾崎元次郎ら県内有力者15人を会員とする翼賛政治体制協議会県支部が結成、県翼壮団長の柴山中将が支部長、翼賛会県支部理事の篠原三郎少将が幹事長に就任して候補者の人選を行い、最後の決定は指導者原理に基づき柴山にゆだねられました。
 推薦候補者は新聞に3月末に1区山田順策、深沢豊太郎、八木元八、加藤弘造、片平七太郎の5人、2区春名成章、金子彦太郎、大村直、鈴木忠吉の4人、3区太田正孝、森口淳三、津倉亀作、伊藤連司(4月5日、加藤七郎に変更)の4人、全県で定員どおり13人と報道されましたが、4月5日の正式発表では1区で平野光雄が追加推薦され、1区は定員を1人超過する事態となりました。片平は定員を超えた推薦に抗議して推薦を辞退し、片平を推す庵原郡翼賛会支部長や郡翼壮副団長5人が役員を辞職する事件となりました。また、推薦を条件に出馬を決意していた鈴木信雄は推薦から外れ、立候補断念の声明で「協議会の推薦の方法については大いに考へさせられるものがあり、いづれ時期を見て自分の意見を発表し将来の改善に資したいといふ強い考えを有ってゐる」との不満を表明しています。
 14人の推薦候補のうち新人が8人で、新体制推進派の議会人や新人が推薦候補となっており、その分多くの現職が外されました。県協力会議議長、県茶業連合会会頭、県町村会会長を務める山口忠五郎も、翼賛県支部内で議論があったようですが、推薦候補から外され、翌43年4月には県協力会議議長も交代しました。推薦から外れた山口、坂下仙一郎、勝又春一ら現職・元議員は非推薦の自由候補者として立候補し、最終的な立候補者は定員の2倍となる26人で、倍率は全国的に2.3倍でした。
 しかし、現役のうち山崎釼二は、後援団体の農地制度改革同盟静岡支部が3月17日に結社禁止処分を受けたことが影響し、立候補を断念しました。この団体は旧農民組合系の政治勢力であり、主幹は福島義一です。1区の旧政友系では立候補が取りだたされた宮本雄一郎、榛葉忠蔵、栗田小文治らの有力者が、合議の上で立候補を辞退しており、山口の選挙に有利に働いたと思われます。こうして志太郡付近では山口と加藤という反目し合う2人の一騎打ちが展開されることになりました。
 ところが大掛かりな啓蒙宣伝にもかかわらず、県民の選挙熱は極めて低調でした。町内会・部落会・隣組の常会では、候補者について議論できない、選挙のために臨時の常会や座談会的な企画をしてはならない、と規制され、「斯くありたい議員」、「出したくない議員」の基準を確認するという抽象的な議論や、翼賛選挙精神の確認ばかりでは盛り上がるはずもありません。選挙運動の中心手段である演説会は平均聴衆38人で、6~10人程度もざらという惨状でした。
 このような選挙の低調さに加えて、有力自由候補者の当選可能性が高くなり、翼賛選挙の推進側の憂慮は深まります。『静岡新聞』が県内3区とも自由候補者の当選可能性を予測した4月20日に、県翼壮は団員一人ひとりが「有為な人材」を当選させるべく15人ずつの推薦状を送付するよう指令を出しました。政府官僚も推薦候補の応援のため、次々と県内の演説会場に登場しました。
 投票日には、「棄権は大政翼賛冒涜」として隣保組で、棄権者の理由上申、投票済み家庭に張り札をつける、職場の時間を繰り合わせて投票するなどの投票強制が行われました。この結果、棄権率は13.3%と全国平均を下回り、前回の衆議院議員選挙に比べると10%以上低下しました。
 選挙結果は予想通り1区で平野、2区で春名、3区で津倉の3人の推薦候補が落選、山口は2位で当選しました。しかし『静岡新聞』5月3日付けで「古豪を圧し新人進出」と評されたように、推薦された新人の人気は、1区と2区のトップ当選に見るように極めて高く、旧政党人の地盤が大きく崩れたことは間違いありません。当選した新議員たちは、旧来の会派を解消し、翼賛政治会を結成しました。
 次回は、「推薦制市町村選挙と戦力増強への県民総動員」というテーマでお話しようと思います。

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