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「概説 静岡県史」第130回:「太平洋戦争下の地方行政と静岡大火、東南海地震」

 昨日2月24日は、ロシアによるウクライナ侵攻から2年になりますが、当初、現代においてこのような動きは、世界各国からロシアには様々な制裁、ウクライナには様々な支援が行われ、1年以内で解決するのではないかと思っていましたので、まさかここまで続くとは想像しませんでした。ロシアという国をよく分かっていなかったのが原因ですが(正直言って、今でもよくわかっていないのですが)、ロシアの実態を知りたいと思う今日この頃です。何か良い方法はないでしょうか。
 それでは「概説 静岡県史」第130回のテキストを掲載します。

第130回:「太平洋戦争下の地方行政と静岡大火、東南海地震」


 今回は、「太平洋戦争下の地方行政と静岡大火、東南海地震」というテーマでお話します。
 1939年(昭和14年)4月、農林省農務局長から県知事に着任していた小浜八弥は、太平洋戦争の開戦に際し、「東亜新秩序」のための「宣戦の大詔」に、「恐懼感激に堪」えず、「二百万県民」に戦争に協力するように次のように呼びかけました。
  二百万県民は宜しく思を此に致し、必勝の信念を以て鉄石の団結を固 
 め、聖旨を奉戴して挙県一致、其の挙措を誤らず、克く待つあるの備を完
 くし、戦は必ず長期に亘べきを覚悟して各其の本分に恪遵し、万難を克服 
 して敵国の打倒、破砕に邁進し、誓て宸襟を安んじ奉るべきなり。

 この天皇主義と大東亜共栄圏論に貫かれた諭告を契機に、日中戦争の開始以来進行しつつあった県政の戦時体制化が急速に進展します。県政それ自体が戦争遂行のための軍部の下請け機関化するだけでなく、県会と政党に対する県政の圧倒的な優越のもとで、県政が町内会・部落会など地域団体や、労働、農業の職域団体をも統合する全体システムとして編成されるという形で進行していきました。
 戦時行政の制度化は、42年1月に着任した藤岡長敏知事の時代の「郡の復活」から始まりました。同年6月12日の「地方官官制中改正」によって、7月1日に全国427か所、静岡県では賀茂・田方・駿東・富士・庵原・安倍・志太・榛原・小笠・周智・磐田・西遠(浜名・引佐)の12地方事務所が開設されました。地方事務所には、当初総務、軍事厚生、学務および経済の4課が置かれ、43年2月には小笠郡を除いて林業課を新設しました。重要物資の増産、生活必需物資の統制、貯蓄奨励、軍事援護、町内会・部落会の指導のほか、県税徴収、教育事務等を分掌し、県庁の出先機関として市町村を強力に指導しました。郡は、大正時代に地方自治要求の一環としてその廃止が強く要求され、21年に郡議会、36年に郡役所自体が廃止されたものです。同じ大正時代に義務教育費国庫負担増額運動や郡役所廃止運動など自治拡充の担い手だった町村会、具体的には町村は、日中戦争以降、またはこの段階では既に戦時行政の末端となっていました。例えば、42年6月27日の県町村長会第22回総会の決議は、①「大東亜戦争」の完遂、②軍事援護の強化、③防空対策の万全、④食糧増産と貯蓄報国をあげ、⑤保健施設の充足でさえも、侵略戦争の兵士としての「国民体位の向上を期す」ものでした。
 戦時行政化のその他の特徴は、戦時行政簡素化です。県庁でいえば、1942年(昭和17年)11月1日の「地方官官制中改正」により、35年以来の総務、学務、経済、土木、警察の5部が、知事官房と内政、経済、土木、警察の4部に統合され、44年7月7日の「地方官官制中改正」により知事官房が廃止され、経済部が農畜水産の経済第一部と、商工、林産の経済第二部とに分離されました。経済部を第一部と第二部に組織として拡充されたのは、県経済の生産力拡充、拡大再生産のためというよりは、急速に縮小再生産に向かう中で、必死に物資動員を強化しようとするものだと言えましょう。さらに43年3月20日の地方制度の全面的改正により、特に知事による町村長、助役に対する専任認可権およびそれぞれの解職権や、市町村に新設された考査役や、収入役、副収入役に対する解職権など、県による市町村に対する統制強化が行われました。他に、内務大臣の市会の推薦候補者による勅裁専任権や、市町村長の部内吏員統率人事権の拡充と議会発言権の縮小、市会権限の縮小、特に市町村長の権限強化も行われました。同じ43年3月20日の地方制度改革により、市町村長による町内会・部落会等に対する指示、これに従わない時の監督官庁への措置申請、財産および経費の管理等に関する措置、町内会・部落会等の自己名義の財産所有、特に部落会等に市町村の「事務の一部を援助せしむること」等の規定が置かれ、町内会・部落会は法認されました。こうして町内会・部落会等は住民登録をはじめ配給、供出、国債割り当て、貯蓄、防空等の戦時行政と県民運動の単位となり、政府-府県-区市町村-町内会・部落会という集権体制が完成しました。同時に、町内会・部落会は国家総動員体制への国民統合の中核であり、国民精神総動員運動、大政翼賛運動、翼賛選挙等の戦時動員は、産業報国会等の職域団体と並んで、常に町内会・部落会等を基礎に進められました。なお、県政の戦時行政化の中で、軍事面の防空・防護、政治面の治安、経済面の経済警察などの領域で中核を形成したのが県警の活動だったことも注目されます。
 このような状況では、かつての地方制度の形式合理主義的契機だった広域行政論や町村合併は、利用される形で県政の戦時化が進行しました。1937年(昭和7年)4月10日の田方郡熱海町と同郡多賀村の合併による熱海市、41年4月29日の田方郡三島町と同郡錦田村の合併による三島市、42年6月1日の富士郡大宮町と同郡富岡村の合併による富士宮市は、いわゆる戦時合併として市制施行が進行しました。この結果、太平洋戦争開始前の41年4月29日の6市51町250村は、44年4月1日には7市50町240村となりました。
 また、40年に地方連絡協議会、43年に地方行政協議会、45年に地方総監府が設置されるなど、戦時広域行政も進行しました。特に45年4月に佐賀県知事から転任した菊池盛登(もりと)知事の時期である45年6月の第87回帝国議会開会中に、勅令「地方総監府官制」により設定された地方総監府は、地方総監が内閣総理大臣および各省大臣の指揮監督を受け、また地方官衙の長を指揮監督して地方における行政全般を統括する専権を持ち、特に地方統監は3か月以下の懲役等罰則があり、管内に効力を持つ地方総監府令を発する「立法権」も持っています。地方行政機関に限定されているとはいえ、「立法権」が勅令により与えられたことは、戦時地方行政の特質と到達点が示されていると言えるでしょう。
 この戦時行政の特質と到達点は、市町村においては非常体制のことです。この行政システムを1944年の「御殿場町非常対策事務規程」に即して見ると、第一に空襲その他の非常災害が発生した時には、静岡県非常対策本部および地方事務所の指揮にもとづき、御殿場町長を本部長とする非常対策本部を御殿場町役場内に設置する、第二に、その任務は、情報連絡、被災民の救護・収容・扶助、避難民の収容、食糧品・夜具・被服衣料・薪炭等応急物資・応急復旧資材の調達配給、緊急経費支出等でした。しかし、この非常事態システムは、都市を中心とする空襲には無力で、防空など戦時非常体制の本質は、41年の「防空法」改正のように、防空敢闘精神によって敵に立ち向かい、避難は認めないというところにありました。
 この非常体制と関係して、空襲などの戦時災害と並ぶ「その他の非常災害」が、戦時中に発生し、県民を苦しめました。40年1月15日の静岡大火と、44年12月7日の東南海地震です。
 1940年(昭和15年)1月15日午後12時8分ごろ、静岡市新富町1丁目の民家の煙突から出た火の粉を原因として出火した火事は、風速10メートルの西風にあおられて延焼し、静岡駅、松坂屋百貨店、田中屋百貨店をはじめ、七間町など市内中心部をことごとく焼き払い、12時間後の午後11時30分ごろにようやく鎮火しました。被害は死者4人、負傷者774人、被災戸数5275戸、うち全焼5035戸、半焼71戸で、焼失85か町、うち全町焼失47か町、人口21万人のうち約2万7000人が被災するという大火災でした。静岡市は当面の間、10坪以下のバラック建て住宅の建設は、警察署長の承認で建築できることとし、被災者に対し普通住宅復興資金を低利で融通するなどの対策を行いましたが、同年長期的な復興都市計画事業を策定します。40年度から43年度までに総事業費582万5503円を投入し、71路線の街路事業、約100ヘクタールの区画整理事業、100平方メートルの防火槽10か所、4か所の公園事業を実施することで、防空に適した市街と上下水道完備の現代都市を現出させるというものです。しかし、戦時中の緊縮財政の中、その実現は極めて困難でした。
 44年(昭和19年)12月7日午後1時35分ごろ、熊野灘を震源地とする東南海地震が発生しました。『静岡県史 別編 自然災害誌』によると、マグネチュード7.9と推定され、被害は静岡県、愛知県、三重県を中心とし、静岡県の死者・行方不明者は295人、負傷者843人、家屋の損壊は全壊69701戸、半壊9522戸とされています。この地震は地震の規模と被害が非常に大きく、例えば磐田郡袋井西国民学校では2年生と4年生の児童251人が倒壊校舎の下敷きとなり、死者20人、負傷者25人を出し、袋井保育所では園舎全壊により22人の死者を出すという痛ましい大惨事となりました。また震度5の地域が静岡市等県内に広く存在しましたが、特に磐田郡袋井町付近の太田川低地の厚く堆積した軟弱粘土層では、震度6となって大きな被害を出したのです。
 しかし、この地震の最大の特徴は、特に救助活動の遅れが戦時体制と結びついた「社会災害」としての性格を持っていたということです。軍部は軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れ、情報を統制しました。地震についての情報は、新聞の最下部のほうでわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられませんでした。そのことがパニックの発生や救助活動の遅れにつながったと考えられます。
 次回は、「地方財政の戦時化」というテーマでお話しようと思います。

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