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「概説 静岡県史」第120回のテキストを掲載します。

 先週に続き、同人誌の話ですが、いろんな書き手が、様々なテーマで書き綴っている「note」は、ある意味同人誌的ですよね。このような媒体があって、気軽にいろいろな文章が投稿できるってのは、幸せなことです。
 それでは、「概説 静岡県史」第120回のテキストを掲載します。

第120回:「同人誌活動と民芸運動」


 今回は、「同人誌活動と民芸運動」というテーマでお話します。
 第119回では、昭和初期の同人誌活動の中でも、特に活動が盛んだった焼津の同人誌について述べましたが、その他にも見るべき同人誌活動がありますので、引き続き同人誌活動についてまとめます。
 1928年(昭和3年)6月に「戦闘的アナキズム詩誌」と副題した『手旗』を創刊した杉山市五郎は、1906年(明治36年)静岡市広野に生まれ、16歳で学校を卒業すると、静岡地方裁判所で3年間勤務後、上京して印刷技術を学びますが、帰郷して家業の農業と酒類販売をしながら文学活動をしていましたが、彼の活動は地方の同人誌の域を大きく越えていきます。大正末年、『文章倶楽部』の常連投稿者だった杉山は、投稿仲間の縁で小林多喜二も参加した、北海道の『原始林』の同人となり、また静岡の町を彷徨する文学青年仲間、柴山群平や高山武夫、高祖保(こうそ たもつ)らと交遊を深めました。『手旗』は彼らとともに創刊しました。また、柴山の紹介で草野心平を知り、28年8月に草野の銅鑼(どら)社を発売所として第一詩集『芋畑の詩』を出版します。『手旗』も『芋畑の詩』も、杉山自ら印刷機を購入し自ら活字を拾い制作しました。続いて草野の処女出版、蛙の詩集『第百階級』を制作、翌29年8月には北海道の猪狩満直(いがり みつなお)の第一詩集『移住民』を印刷、発行しています。同書の草野の跋文に「杉山君の一通りでない努力、野良と雑貨売りとの寸暇に古ぼけた小さな機械をまわして、子供が「父ちゃんよう」といって脚にからみつく、そんな多忙と骨肉その他の絶えざる反対にあいながら出来上がった」と感謝が述べられています。
 28年12月に草野の発起で、伊藤信吉編集の詩誌『学校』が創刊されると杉山も加わります。『学校』は7号で終わってしまいますが、29年12月に刊行された『学校詩集 一九二九年版』は、今も詩史に残るものです。同詩集に詩を寄せた37人の中には、三野混沌(みの こんとん)、更科源蔵、尾崎喜八、大江満雄、静岡から柴山群平、金井新作、森竹夫が参加しています。この頃杉山はアナーキズム系詩誌との交わりを深め、『黒色戦線』、『第二』、『馬』、『弾道』などに次々と作品を発表し、静岡では若杉雄三郎主宰の『独唱』や岡村勝太郎編集の『広場』に参加、34年には第二詩集『飛魚の子』を発刊します。
 杉山の詩には戦闘的叫喚はなく、生活的、牧歌的、農本主義的ヒューマニズムにあふれていましたが、その杉山にも官憲の手が伸びます。35年11月10日の日本無政府共産党ギャング事件を機に行われた一斉検挙が始まった11月27日、無政府共産主義団体である農村青年社関係の機関紙類の配布を受けていたかどで検挙され、「微罪」釈放となりましたが、敗戦まで休筆に追い込まれました。しかし、39年には謄写版印刷技術の腕を買われて、静岡市役所に就職しています。
 同じアナーキズム傾向でありながら、杉山市五郎や柴山群平とは別に出現したのが『農民小学校』です。同人は20歳前後の4人で、創刊号を編集した鈴木武は、天竜川河口に近い磐田郡袖浦村(旧竜洋町、現在磐田市)の農家に生まれます。父はすでに亡く、石川和民は「母が糸車を回している傍でペンを握る。日頃、田や畑で見たもの、気づいたものすべてが糸車の傍から詩となって生まれる」と、武について書いています。その石川は袖浦小学校で武の一年下で、二人とも級長でした。『馬』同人の鈴木致一(むねいち)について同誌の消息に「父母を失い、致一君を先頭に五人の兄弟で百姓をする」と書かれています。古山信義は東京外国語学校を中退して、彼らより早く詩を書き始めていました。石川が中泉農学校で2年上級の鈴木致一を誘い、30年3月に『農民小学校』1号を出します。彼らは全国農民芸術連盟に加盟し、犬田卯(しげる)の第三次『農民』に詩を書いていました。彼らには農民の暮らしに深く沈殿し、苦悩しつつ、プロレタリア文学運動に違和感を抱く詩人気質があり、リベラルな空気を感じられるアナーキズム詩の世界の方がより近く、革命とか農民運動よりも、生活の具体から発する言葉、抑制の利いた言葉に煮詰め、農民の哀感を深く内包した表現をとっていました。
 彼らは常に官憲に付きまとわれていましたが、それでも『農民小学校』を10号まで出し、30年から31年にかけて、石川『祭』、鈴木致一『葱』、古山『土塊の合掌』、鈴木武『農村細胞の書』という個人詩集を、発行所農民小学校で出しています。10号刊行の30年暮れに石川が入営、32年に鈴木武が憲兵の付き添い付きで入隊し、39年に貫通銃創を受けて歩行困難となりながら41年に除隊、鈴木致一は37年入営します。こうして古山を除く3人が戦争に駆り出され、バラバラにされてしまいました。
 浜松には青年詩人らが群れを成していました。『浜松詩人』の藤田春一、『悪人街』の浦和淳、『呼鈴』の岡本美致広(みちひろ)、『殉詩徒』の秋本敏夫、『素描』の渥美暁夢(ぎょうむ)、『つるばみ』の菅沼五十一(いそいち)らがいましたが、なかでも浦和淳の活動が際立っていました。『悪人街』は1931年(昭和6年)3月創刊で全6冊、当初はガリ版ですが、表紙やカットはモダンで都会的な色合いです。プロ系(プロレタリア系)・アナ系(アナキズム系)の「傾向詩(思想的な意味合いを帯びた詩)」とは一線を画するためか表紙に「純粋詩」をうたっています。浦和と岡本は同行者で32年創刊の『呼鈴』、33年創刊の『殉詩徒』でも主要メンバーとして活動しました。彼らは、文学的「エスプリ・ヌーボー」運動の場であり、モダニズム運動の拠点であった季刊文学雑誌『詩と詩論』を愛読し、第一次世界大戦期に起こった革新的芸術運動のアバンギャルドの文学を学び、ダダイズムやシュールレアリスム(超現実主義)に親しみました。フランスの作曲家エリック・サティの住むパリ郊外の地名、アルクイユをクラブの名とした文学グループと連絡を取り、その詩誌『白紙』に。『呼鈴』同人から浦和淳、岡本美致広、塩寺はるよの3人が参加します。『白紙』は後に『MADAME BLANCHE』と改題、北園克衛、岩本修造、西脇順三郎、後にNHK静岡放送局長となる山中散生(さんせい)らが主要なメンバーでした。38年8月にアルクイユのクラブは消滅しますが、彼らは『VOU』など、アバンギャルドの芸術運動の同伴者として浜松で活躍しました。『呼鈴』には若くして亡くなる左川(さがわ)ちかの寄稿もあり、活動が広範囲だったことが分かります。
 静岡では32年創刊の『静岡詩人』にも『詩と詩論』の影響が見られます。青山学院を卒業して三井物産会社に勤務した堀謙治が中心となり、在京の静岡出身者も参加します。31年創刊の女性詩誌『風』もモダニズム傾向の詩を掲載します。
 1926年(大正15年)、柳宗悦は浜田庄司、河井寛次郎とともに、民衆的工芸を略して「民芸」という言葉を創出して民芸運動に乗り出し、理論の確立と運動の実践に努め、また「日本民芸美術館設立趣意書」の起草を行います。
 その柳が、27年(昭和2年)1月13日、運動への理解と協力を求めるため、誠心高等女学校教諭の中村精を訪ねて浜松にやって来ました。翌14日に中村はガラス絵収集で知られる医師の内田六郎、詩人で英語教師の羽仁春、日本画家の鈴木繁らに呼びかけて座談会を開き、和時計のコレクションで知られる高林兵衛を浜名郡積志村(現在浜松市)有玉に訪ねて協力を要請しました。高林は柳の意を受けて28年に上野公園の大礼記念国産振興博覧会に金1万円で日本民芸館の建設を寄贈、31年4月に自邸内に日本民芸美術館を開館させます。看板は柳の揮毫です。わすか2年で閉館となりましたが、浜松の民芸運動の気運を醸すのに果たした役割は大きく、また36年に東京府目黒区駒場に設立された日本民芸館の先駆としての役割を果たしました。
 さらに高林は、柳を静岡市の芹沢啓介に引き合わせます。大正末年の朝鮮旅行の船上で、用の美と手工芸を主張する柳の論文「工藝の道」に感動した芹沢にとって必然の出会いでした。これにより、それまでは町の紺屋だった芹沢は、29年の第4回国画会にろうけつ染めの「紺地蔬菜文壁掛」(杓子菜文)を初出品し、国画奨励賞を受賞して工芸家としての第一歩を踏み出します。32年には国画会会員に推され、同年京都大毎会館で外村吉之助、柳悦孝の3人で第一回新興民芸展を開催しています。39年沖縄に行き、以前から注目していた紅型の技法を学び、型絵染に独自の境地を開き、56年(昭和31年)に重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定されます。81年(昭和56年)、静岡市登呂公園内に静岡市立芹沢銈介美術館が開館し、芹沢作品とともに世界の民俗資料などの工芸品コレクションが収蔵、展示されています。
 次回は、「日中全面戦争と県内部隊の出動」というテーマでお話しようと思います。 

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