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放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(11)県立高等学校の再編統合

文化庁長官官房総務課文化政策室に1年いて、その後の2年間は、神奈川県教育委員会に勤務しました。

横浜関内のビルにあるので、昼休みになると、同僚たちと中華街に行きます。昼のランチは料理に種類があるので、人数分、別々の種類を注文して、いろいろな料理を食べるのが楽しみでした。学校現場では、昼休みの時間は生徒を集めて委員会を開いたり、個別の相談対応をしたりするので、実質的には勤務時間で、昼食も慌ただしく即席麺で済ませたりするものだからです。

県教育委員会事務局時代に私が所属したのは文化財保護課でした。(正式には神奈川県教育庁生涯学習部文化財保護課、組織改編後は県教育庁教育部生涯学習文化財課)。埋蔵文化財は専門家集団でひとつの班を構成し、史跡名勝、有形文化財、無形文化財、天然記念物は、それぞれ担当が置かれ、私は天然記念物担当になりました。

埋蔵文化財班の、ある同僚は、その後、母校で博士号をとりました。眉目秀麗で、見るからに頭の良さそうなこの人から、持っている実力を、私が充分に発揮し切っていないといわれたことがあります。批判というより、もったいないという口調でした。自分ではわかりませんが、そんな風に見えていたようです。

国と市町村との間に県が入る調整会議のために、国指定天然記念物がある箱根の仙石原に出かけたり、県指定天然記念物の寺社林現状変更(樹形が変わらぬ程度に枝を切る等)の立ち会いなどをしました。
組織改編後、文化財保護課は生涯学習課と統合されました。教育行政は、やはり学校教育が中心なので、周縁部にある社会教育の世界も垣間見ることができたのは収穫でした。また、知事部局自然保護課との協働や、県立自然史博物館の学芸員、横浜市動物園の関係者との連携、環境庁(現在の環境省)専門官との視察なども貴重な体験でした。

文化財保護課で伝統芸能を担当していた同僚は、早稲田大学大学院修士課程修了後に神奈川県立高等学校の教員になった人で、私より以前に文化庁文化政策室に派遣されていました。歌舞伎に関する一般書の分担執筆という業績がありました。その後、割愛されて国家公務員になり、文化庁文化財部伝統文化課を経て、国立劇場に異動しました。情熱的で、演劇的で、ドラマのように場を盛り上げる方でした。

彼の前に文化庁に派遣されたのは、東京大学を卒業して高校教師になった人でしたが、すでに学校現場に戻っていました。東京大学を卒業した教員は、ふたつめに勤めた高等学校にもいました。穏やかで、勉強家でしたが、論文は書いていませんでした。

教育行政を経験したあと、私は横浜市内の全日制普通科高等学校に異動しました。この学校は、別の高等学校と、数年後に再編統合されることになっていました。神奈川県は、1970年代に県立高校100校計画を立て、高等学校を100校建てたのでした。それだけ高校生の数が増加していたからです。ところが次第に生徒数は減少を始めたので、今度は数を減らさねばならなくなったのでした。

私自身が、新設校の1期生であったことは、以前に記しました。そこで、教員人生でも得がたい機会と考えた私は、再編統合の委員会メンバーになりました。授業をするほかに、もう一つの学校のメンバーや、教育委員会の担当者と定期的な会合を開きながら、実務的な細部を詰めていくのです。これは大変ではありましたが、エキサイティングな経験でした。

お手玉を五つも六つも投げているような感じでした。再編担当委員と管理職で自転車操業のように毎日どんどん決めていくと、魔法のようにそれが新校の現実になっていくのでした。面白いと思ったのは、組織というものが持つ奇妙な性質で、一度決まってしまうと可塑性が急速に失われ、後からの修正が容易ではなくなることでした。

統合される高等学校は、どちらも諸課題が集中した学校で、生徒指導に大量のエネルギーを注がねばならない学校でした。統合されたとき、教務、進路、管理、などの分掌主任は、全て設備活用校である、もうひとつの学校の教員がなりましたが、生徒指導に関してだけは、非活用校の教員だった私が主任を引き受けることになりました。私が勤務する学校の方が、生徒指導のノウハウと、そのマニュアル化の蓄積が厚かったからです。

校長、副校長(教頭)、教諭という学校現場の役職に、主幹教諭(神奈川県では総括教諭といいます。)という給料表の異なる新しい職が設置されたのは、この時期のことです。設置2年目に、私は生徒指導の主幹教諭になりました。そして、朝から晩まで生徒指導に追われる生活を続けるうちに、倒れてしまったのです。3ヶ月の療養休暇を取り、元気になった気がして職場復帰したものの、すぐにまた倒れて、ふたたび3ヶ月の療養休暇。それでもダメで、休職になってしまいました。年収も大幅に下がりました。

急性期には、論文執筆はおろか、読書もままなりませんでした。子どもたちは、まだ10歳と4歳なのに、万事休すです。それまでは、忙しいなかでも文芸誌などに評論や書評を書いたり、文庫本の解説を書いたりしていたのですが、学校から離脱したように、文芸の世界からも離れざるを得なくなってしまいました。矢内原伊作や宇佐見英治さんが創刊した「同時代」(黒の会)の同人だったのですが、とても提稿できる状態ではなく、迷惑をかけると思って退会しました。私は沈み込んでいきました。

ベッドのなかで、ぼんやりしたまま、これからの人生について考えました。そして、生徒指導主幹教諭という、どう考えても自分に似合わない役を無理に引き受けていた愚を悟りました。多忙のなかで自分を見失っていたと気がついたのです。40代半ばの私は、どんなに大量の仕事でも捌けると自分を過信していました。仕事盛りの男性が嵌まるトラップに見事にかかってしまったのでした。

その学校では、わたしが在勤中に、40代の同僚が勤務中に脳溢血で倒れて、休職の後に退職しました。心筋梗塞でも、ふたりが亡くなりました。再編後の残務処理をしていた30代の事務職員は胃癌であっという間に亡くなりました。再編統合の委員だった40代の人は、空手の有段者でしたが、体を壊して入院してしまいました。すべて男性でした。今思えば、相当に過酷な現場だったのだと思います。命を落とさずに済んで良かったと思います。

神奈川県立高等学校は、現在は142校あり、進学校もあれば課題集中校もあります。何年かごとに学校を異動するわけですが、朝から晩まで生徒指導に追われるような学校は、誰もが順番に、教員としてのキャリアコースのどこかの時点で何年間か働くしかないと思います。

現場に復帰すると、強いストレスに晒される生徒指導部から管理部(主に設備備品の管理を分掌します。)に分掌を変更してもらい、自ら降格を願い出て、主幹教諭から教諭に戻りました。当時の記憶は、かなり不確かです。よく覚えていません。思い出したくないのでしょう。また、身体を壊す以前と比べると、悲しいことですが、知的な能力が落ちました。これは、他人にはわからないかもしれませんが、自分ではよくわかります。

その後、東日本大震災が起きます。そして、震災の翌年、制限勤務(勤務時間外労働不可、休日勤務不可)はまだ解除されていませんでしたが、現在勤務する全日制普通科高等学校に異動したのでした。
(続く)

*写真は、私が元気だった時代に、幼い子どもたちとよく遊んだ公園です。

 

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