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僕らは「みかん」ではない

先日のnoteは、皆さんに色々と心配おかけしました。
悠々自適に2ヶ月半を過ごし、だいぶ心も休息できたように思います(身体は鈍ったし、何なら(多分)増量しました。怖くて体重計には乗っていません)。
来週からの「再出発」が決まったのでご報告したいのと、今の心境を文章にしておきたいので、 勉強を頑張っている彼女の目の前で、何をしているのか分からないようにしながら、iPadとキーボードでカタカタ打っていきます。

あっ、忘れていました。
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

伸び切ったゴム

冒頭にも書きましたが、来週月曜からの仕事復帰が決まりました
精神科医にもぼちぼち戻ってよいと診断書を書いてもらい、上司や職場の保健室的な部署の医師と打ち合わせをするために、一昨日、久々にスーツをキメこみ、職場に行ってきました。

久々すぎて、スーツの着方が、正直わかりませんでした。
こんなに窮屈だったっけ(太っただけ?ではないと思いたい)。革靴ってこんなに硬かったっけ。
満員に近い朝の電車の中、サラリーマンや高校生がそれぞれの世界の中にいる。ある人はスマホに、ある人はヘッドホンに、ある人は参考書に。これから、それぞれの「戦場」に向かっていくんだ。
緊張のあまり早く着きすぎたので、朝食でも食べて落ち着こうと立ち寄ったマクドナルドでも、店員さんが忙しそうに動き回っている。エッグマックマフィンセットを注文して2階に上がると、競馬新聞を読み耽っているおじさんと、恐らく受験生で学校での授業がもうないと思われるS高校の女の子2人が、背中合わせでそれぞれ集中して勉強している。

そうだ、この緊張感の中、ずっと闘ってきたんだ。
そして、これから、また闘っていくんだ。

「保健室」の医師との面談中、今の自分を比喩するにあたって腑に落ちる表現を見つけました。
「病気休暇期間中はどうでしたか。休めましたか」
「お陰様でしっかり休めました。今の自分を、まるで『伸び切ったゴム』のようだなと感じています。電車の中、朝の喧騒の中、サラリーマンや学生がそれぞれすべきことをするために、すべきところに向かっている。今までその光景が当たり前だったのに、しばらくそこから離れていたからか、とても新鮮に思えて、正直この中でまた闘っていけるんだろうか、と不安になります。これまでの休暇期間中は、パーカーやスウェットにスニーカー姿で、朝も早く起きることも殆どなかった。ゴムが伸び切っていたんです。でも、このまま逃げてばかりでは始まらないし、少しずつやらせていただきたいと思ってます」
「今の元気の度合いを100点満点で点数化すると何点ですか」
「そうですね……80点くらいですね」
「それはよかった。以前お会いした時(昨年11月)より、表情がだいぶ違いますよ」

自己評価で80点を付けたのは、自分でも意外でした。
確かに、病気休暇をいただく前の自分は、少なくとも、日々を縋るように生きていました。息継ぎが大変だったのです。何点だったかな……50点もなかったかな……。そう考えると、だいぶ健康になれたと思います。

「恋人くらいしか、今の状況を打ち明けられないって先日は伝えていたと思います。確かに、家族には結局打ち明けず仕舞いでしたが、何人か友人に打ち明けた(Twitterやnoteに書いた、とは言いませんでしたが)ら、思った以上に反応があって、それぞれがそれぞれの経験値や寄り添い方をもとに、色々言葉をくれました。自分が思っていた以上に、自分は人に恵まれていたんだ、と気付かされたし、セルフケアを疎かにしていたことも反省しました
「自分から心を開くと、相手も心を開いてくれますものね。よかったですね」
「心理学用語で『自己開示の返報性』とかいうんでしたっけ、それをまさに体感した期間でした」
「お仕事でそういった面接もされてましたね。私の仕事もそうですが、その言葉の通りですね」

自己開示の返報性

自己開示は、その送り手と受け手の双方にとって報酬として機能する。受け手にとっては、自分が特に自己開示の対象として選択されたという事実は、自分に対する送り手の好意や信頼感を示すものと解釈され得るし、その内容そのものも、自分の意見の妥当性を高めてくれるものであれば報酬としての意味をもつことになる。また、送り手にとっても、自己開示によって自己明確化、社会的妥当化が可能になるならば、それが報酬として働くと考えてよいであろう。

ー安藤清志「対人関係における自己開示の機能」『東京女子大学紀要論集』36巻2号、1986、167-199頁。

ここ1年くらい勉強しているテキストにちょこちょこ出てくる「自己開示」についての論文を、上記引用のために初めて読みました。

「自己開示の返報性」、なんだか言葉を気に入ってちょこちょこ使っています。
なんだか難しい言葉のようですが、文字通りの、当たり前のことを言っているだけの用語です(だと勝手に僕は判断しています)。
自分が心を開けば、自分を打ち明ければ、相手も、相手の何かを見せてくれる。ただそれだけのことです。

自分が苦しみを打ち明けたら、思った以上に、自分の周囲には「苦しんだ」経験のある人たちがいるんだ、と気付かされました。
変に悲劇の主人公ぶることもせずに済みました。28歳にもなってそんな幼稚なことやっていたらイタいだけですからね。
中には、自らの休職の経験、そのときの過ごし方や気持ちの変化などを教えてくれた人もいました。かなり参考になりました。本当にありがたかったです。

同時に、そのような声が聞こえてくることについて、「ああ、休んでもいいんだ」と安心感にも繋がりました。

僕は、高校は進学校にいましたし、成績もぼちぼち取れていた方でしたから、大学受験に失敗して浪人したとき、「ああ、人生終わった」と本気で絶望したのをかなり鮮明に覚えています。
それまで挫折という挫折を全く経験していませんでした。
高校卒業と同時に大学に入り、4年間勉強して卒業後はいい企業に入って、出世街道を進んで、25歳くらいで結婚もして、仕事も家庭も順風満帆でいくんだ、と本気で考えていました。
だから浪人は、その道が断たれてしまう、いわば「死刑宣告」のようなものだったように思います。
でも、その挫折を味わったからこそ、18歳からの僕は自由に生きることができるようになったと思います。
大学こそ順風に4年間が過ぎ去ってしまいました(と言っても第一志望校ではありませんでしたよ)が、教師になるという進路を変更して一般企業に就職しました。大学4年生のときは、熊本地震で地元がめちゃくちゃ傷付いたし、卒業後に就職した職場も仕事量が異常に多くてブラックだったし、思っていた仕事とは全く違う仕事が回ってきたりもしたし、退職も転職もしました。(付き合っていた当時は本気で好きだったし、結婚もできるならしたいと思っていた)恋人との別れもいくつかありました(昨年、そのうち1人が結婚したと風の噂で聞きました。本当にめでたい。祝える立場じゃないけれど、ここでこっそりと「おめでとう」を)。失業手当だって受給したし、公務員試験だって受けました。
人生、本当に思ったようには進まない。だからこそ、苦しいし、楽しい。
その「思ったようにいかない」の渦中に、真っ只中に、今の僕はいるのだ。そう思えるようになりました。

そうは言っても、そりゃあ、大きな挫折ですよ。
病気休暇なんて、取らないで済むなら取りたくない。
いつまでも自立していたいし、誰かにおんぶに抱っこされたくない。「ヒモ」なんてまっぴらごめんだ。
でも、自分が思ったよりは、少しだけ、社会は暖かかったし、恐る恐る差し出した「助けて」の手が虚空を掻くこともなかったし、少しくらいは誰かを頼ってもいいんだと思えた2ヶ月半でした。
誰かを助けて支える仕事をしていながら、その自負と矜持をもちながら、助け支えられることに対して無意識的に否定的だった自分は、実はものすごく醜い差別の塊なのではないか、なんてことに気付けたのもよかったです。

金八先生が「『人』という字は……」と言っていたことには否定的な僕ですが(漢字辞典によると、字の成り立ちは、本当は人が「1人で」立っているところを横から見た姿らしいですよ)、「人間」という言葉の意味合いに関してはとても深い意味合いを最近感じる僕です。

人間は、仏教語でサンスクリット語「mamusya」の漢訳。
仏教語としての「人間」は、「世の中」「世間」「人の世」を意味した言葉で、「人間」に「人」そのもの意味が加わったのは江戸時代以降である。
「人間」を「にんげん」と読むのは呉音。
漢音では「じんかん」と読む。
一般に「人」を表す場合は「にんげん」、「世の中」の意味で用いる場合は「じんかん」と読み分けられることが多いが、この読み分けに特別な理由は無く、「世の中」の意味で「にんげん」と読んでも間違いではない。

語源由来辞典

僕らは、人と人との間に生きている。誰かに依存し、誰かを支えて生きている。
そんな「当たり前」を忘れかけていたことに、気付かされたのでした。

腐ったみかんと、また歩き出す自分

先日は、「腐ったみかんと自分が重なって見えた」なんて自虐的なことを考えもしました。
確かに人間、「人」の「間」に生きる生き物ですから、周囲にマイナスの影響を与え合って、ときには自分自身が腐ってしまうことや、大切な人を傷付けて腐らせてしまうことだってあるんだと思います。
人間が人間である以上、仕方のないことなんだと思います。

やっぱりみかんが美味しい季節ですし、あれからもいくつか腐ったみかんを袋に入れて、ゴミ箱に捨てました。
あそこまで自虐を文章化した後ですから、みかんを見ると変に意識しますし、みかんを捨てるときは、まるで自傷行為のように心がチクリと痛みました。
でも、僕らはみかんじゃない。腐ってしまっても、また立ち直れる。
また歩き出せる生き物なんだ
、と前向きな気持ちになれているのが今の僕です。

「保健室」の医師に言われました。
「復帰を前にした今、心配や不安はありませんか」
「心配だし、不安でいっぱいです。こんな弛緩し切ったゴムで、この緊張感の中また闘えるのだろうか、と思いますし、宝くじが数億円当たったら仕事を辞めてのんびりと暮らしたいなんて気持ちもあります。でも、この心配や不安は、例えば大学に入学する直前のような、何か新しい環境に入る前に抱く漠然とした気持ちと似ているような気がします。それが怖いからと逃げていたら、いつまでたっても何も始まらないと思っています」
「そうですね。病気休暇をとられる方も、一番不安が大きくなるのは復職直前なので、正常な反応だと思います。無理をすることなく、ぼちぼちやってくださいね」

支えられているなあ、ありがたいなあ。
優しい言葉に、素直に感謝の気持ちを抱くことができました。

高校の頃に思い描いていた人生のレールとは全く違う生き方をしているけれど、何度目か分からない挫折の渦中にいるけれど、でも、10年前の自分よりは圧倒的に今の自分が強いし、豊かだし、優しいし、頭がいいし、賢い
変に上を見上げすぎず、横を見て焦ることなく、自分の生き方を少しずつやっていければいい。
気が付けば背伸びして疲れてしまう癖を自覚して、心身の拍動を感じながらやっていけばいい。できそうなことはやってみるし、できないものはできない。できないからといって誹りを受けることもない。

長いこと座右の銘としている、北畠親房の「天地(あめつち)の初(はじめ)は今日より始まる」という言葉が、より一層の深さをもって感じられる自分になった気がします。

正直、まだ「始ま」ってないからこれだけの綺麗事を書けるんだとも思います。
でも、やれるだけ、ぼちぼち無理せずゆっくりとやっていこうと思います。
応援してくださると嬉しいです。

次にnoteを書くときは、今年の目標についても書けたらと思います。

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