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施し、苦難とともに生きる幸せ

こんばんは、お久しぶりです。

つい最近、とある試験を受けました。次の仕事につながる試験です。
いやはや、この年齢になっても新しいことを勉強して、机に向かって試験を受ける日が来るとは思いもしませんでした。

か、な、り、難しかったです。
問題の難易度というよりも、志願倍率が(14倍超)。

結果はひと月後ですが、いい報せができるといいなと思いながら、とりあえずはひと段落、今日は彼女と久々に会ってデートしてきました。

改めて、支えてくれた、支えてくれてる、彼女に感謝。そう思った出来事があったので、記録しようと思います。

「還浄」の張り紙と、メニュー変更

お昼に、彼女行きつけの、とある地鶏焼きやさんに行きました。
かなり山奥にあって、車がないと行けません(今日も運転してくれてありがとう)。
おじさんとおばさんが、ご家族を中心にやっておられる、知る人ぞ知るお店で、

彼女「他人に教えたいけど教えたくない」

とのことですので、店名などは控えます。

ただ、自信もって言えます。ここの地鶏焼きが、一番美味しい。鳥刺しも最高。
彼女氏、この店発掘してくれてありがとう……。
僕も教えたくない名店です笑

さておき、入ろうとしたら、「還浄」の張り紙が。
……え、どなたが?

僕もまだ数回しか行ったことがないので、おじさんとおばさんと、そこまで深い関わりをもったことはなかったのですが、とても人当たりの好い、仲の良さそうなお二人でお店を切り盛りされています。

メニューを渡され、いつもの定食を選ぼうとしたら。
……ない。

違和感を抱きつつ注文し、運ばれてきた地鶏たちに舌鼓を打っていたら。
おじさんが入って来られました。

「先月、嫁さんを見送ってね」

……はい??

メニュー変更はそれに伴い、奥さんが担当されていた小鉢などの味を出せない、と判断してのことだったようです。

1ヶ月足らず、店再開の覚悟

お店のメニューは米も野菜も自家製。
おじさんが先月末、その米の世話をしている中、家でひとり倒れた奥さんは帰らぬ人となってしまったとのことでした。

享年65歳。若すぎます。
僕も、数ヶ月前、おばさんとお会計時にちょこっと話をしたばかりでした。

葬儀を済ませたその夜中、車で山中の崖から飛び込み、後を追おうとした、と涙ながらにおじさん。

「いつも通り車のドアを開けようとしたとよ。でも不思議とね、その夜に限って、鍵が回らんとよ」
「きっと奥さんが、後を追わないようにって、そうしたんですね」
「俺がそういう人間じゃって、何でも分かっとったんやろね」

寂しそうに笑うおじさん。駆け落ちまでして連れ添ったおしどり夫婦、その妻の最期は突然やってきました。

「あの朝、米の世話に行かんかったら間に合ってたかもしれんのに」

その後悔と闘いながら、「後を追えなかった」おじさんは、夫婦で作り上げた店を、妻の死後2週間で再開することにしたと言います。

相当の覚悟があってのことかと思います。
壮絶な葛藤があったでしょうし、今もその渦中でしょう。
おじさんには、尊敬とか、そんな軽い言葉で言い表せない。

地鶏からは、重みのある、でも、優しい味がしました。

人に施す、此れ幸せ

もともとおしゃべり大好きなおじさん。
少し宗教的な印象を受けなくはないですが、その一貫した哲学は、70歳の重みと、顔に刻まれた優しいシワが証明していました。

「ごめんね、食事が不味くなったね」
「いえいえ、いつも美味しくて、また来たいってわがまま言って彼女に連れて来てもらったんですよ」
「そうなんね、ありがとう」

そしておじさんは、ひとしきり思い出話を語ってくれたあと、僕らを諭すように話してくれました。

「俺、いつも思うとたい。人間ね、人に施し、喜んでもらうことを嬉しいと思わにゃいかんと思うのよ

おじさんの生き方そのものです。
金儲けしなくていい(メニュー、どれをとってもかなり安いです)。
ただただ「美味しい」を、笑顔を届けたい。
そういう思いが伝わってくる美味しさなのです。
僕が知らないところでも、きっとたくさんの誰かを支え、尽くして生きてきた方だと確信できる人です。
亡き奥さんもまたそのような人で、持ちつ持たれつ、支え合ってこられた。感謝し合い、愛し合うお二人だったのだと容易に想像がつく方です。

人に施し、嬉しいと思う——その言葉を聞いて、僕はふと思い出したことがあります。

最近、小さな発見がありました。
ひと昔前の教育現場でよく叫ばれた、自己肯定感(セルフエスティーム)を高める大切さについて、それはある意味、いまは達成されているのかもしれない、と。
自分を容易に発信できる時代、個性を大切にされながら、好きなことを選んでしていい時代。

でも、同じ文脈で語られることの多い、「自己有用感」は、むしろ軽薄になってはいないか。むしろ、そちらが大切なのではないか。

自己肯定感と、自己有用感。似ているようで全然違うのでは?と思い調べてみると、もう既に教育界では常識なようで……。勉強不足でした。

「自尊感情」(注:=自己肯定感)とは
一般の英語の辞書で Self-esteem を引くと、自尊心、プライド、うぬぼれ、…等の訳語が見つかります。元々は、プラス面もマイナス面も含んだ中立的な語であることがわかります。それを考えると、プラス面のみを想起させる「自尊感情」という訳語は名訳と言えるかも知れません。しかし、「自尊感情」を高めるべく大人が子供を褒める機会を増やしても、必ずしも好ましい結果をもたらすとは言えないのも事実です。そもそも褒める以前に叱ったり行動を改めさせたりすることから始めるしかない児童生徒に悩むことは、少なくありません。また、大人が褒めることで自信を付けさせることができたとしても、実力以上に過大評価してしまったり、周りの子供からの評価を得られずに元に戻ってしまったり、自他の評価のギャップにストレスを感じるようになったり、ということが起きうるからです。

「自己有用感」とは
最終的には自己評価であるとしても、他者からの評価やまなざしを強く感じた上でなされるという点がポイントです。単に「クラスで一番足が速い」という自信ではなく、「クラスで一番足が速いので、クラスの代表に選ばれた。みんなの期待に応えられるよう頑張りたい」という形の自信です。その意味では、「クラスで一番」かどうかは、さほど重要ではなくなっている、とさえ言えます。
「自己有用感」の獲得が「自尊感情」の獲得につながるであろうことは、容易に想像できます。しかしながら、「自尊感情」が高いことは、必ずしも「自己有用感」 の高さを意味しません。あえて、「自己有用感」という語にこだわるのは、そのためです。

文部科学省国立教育政策研究所「生徒指導リーフ 『自尊感情? それとも自己有用感?』」(https://www.nier.go.jp/shido/leaf/leaf18.pdf)

誰かのために尽くし、責任を負い、それを全うし、達成し、自分の居場所を、物理的にも精神的にも確立していくこと。

もしかしたら、真面目が馬鹿を見る、損する時代かもしれません。
でも、全うに生きていたら、誰かに受け入れられ、苦難の時に助けてくれる誰かがいる、孤独でない生き方ができる。
それはもはや、馬鹿でも損でもない。

おじさんは、僕と恋人に、そう伝えてくれました。
僕らはきっと、馬鹿正直で真面目な、損する二人なので。
でも、胸を張って明日も生きていくんだと思います。
おじさんにエールを渡さなきゃいけない立場なのに、逆にエールをいただいてしまったのでした。

苦難を受け入れる、此れも幸せ

おじさんは、こうも諭してくれました。

「今までいろんなことがあった。つらかったこともいっぱいあったよ。でも、その都度、それは修業だと思ってきた。『あ、修業の時期がきたな』って。
苦しい時、怒りたくなるど? イライラするど? そうやって引っ掛かるのは、『甘え』なんよ。でも、苦しいときに、それを受け入れて乗り越える。徳を積ませていただけるって思うと、怒りもすーっと消えていくもんだよ」

70年の年輪は、ここまで複雑な紋様を描けるものでしょうか。

27歳の若造の僕には、正直、おじさんのこの教えを料理できませんでした。
鳥刺しは美味しくいただけても、こちらは消化不良です。

ええ、似たようなことを言っている哲学者は何人もいます。知識としては知ってますとも。
でも、こうも実態を伴って生きている年長者を前に、自分の浅はかさを思い知ったのでした。

年老いて死が近くなったとき、このように哲学を語ることのできる、深みのある人間になりたいと思います。
決して、若者が席を譲ってくれないなどと腹をたてるような、「態度がでかくとも人間的に小さな老人」にはならないぞ!

おじさんは、大きな宿題をくれました。

おじさんの話を聞いて二人で交わした小さな約束、「私たちも、支え支えられ、感謝を忘れない二人でずっといようね」を、僕が決して忘れぬよう。忘れてたら引っ叩いてください。

支えられてばかりだけど、本当に、いつもいつも、ありがとう。

僕らは、仏壇の真新しい遺影に手を合わせ、お店を後にしたのでした。
ちょっぴり不思議な、雨のデートでした。

今日の一曲

ZAQ「こころのなまえ」です。

僕の大好きなバラードです。
最近、この歌詞が自分によく重なります。
もしよかったら聴いてくださいね。

それでは、また気が向いたときまで、また。

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