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終戦記念日に思う - No. 2

今日は「令和最初の終戦記念日」であった。そのことに意味はあるだろうか。昭和であろうと平成であろうと令和であろうと、終戦記念日は終戦記念日でありつづける。

昨年の「終戦記念日に思う」では、平和を一瞬にして壊しかねない核戦力の存在によって、現在の平和が保たれている(とされている)という自己矛盾についての疑問を綴ったが、その締めくくりは「今日は『平成最後の終戦記念日』である」であった。そこで今年は、時代の移り変わりという観点から、考えてみることとする。


小さい頃、終戦が「記念」されている理由が分からなかった。終戦といえば響きはいいが、実のところ敗戦である。一方、幼い私の語感では、「記念」は「喜ばしいことを思い出すこと」だった。結婚記念日にしても、創立記念日にしても、おめでたいことだ。それなのに、「一億総玉砕」とまで宣伝された総動員での戦争に遂に敗れた日を、「記念」するのはおかしいと思っていた。

私がその疑問をぶつけた相手は、賢明にも祖父であった。祖父は戦争末期に戦闘に参加する直前で、終戦の日を迎えた人である。私の質問に対する祖父の回答は明快だった。

「戦争を終わらせた日ではなくて、平和を始めた日だからだよ」

言葉の意味を突き詰めれば、「記念」は負の記憶に対しても用いることのできる語であるから、例えば「戦争の事実を思い起こすため」という説明でも間違いはないであろうし、もしかするとその方が本流の考え方かもしれない。しかし、「平和を始めた日」という考え方に一種の感動を覚えたのは事実だった。


今日の日本の周囲での情勢を踏まえれば、中露との領土問題にせよ韓国とのいくつかの摩擦にせよ、戦争に端を発しているものは少なくない。そう考えれば太平洋戦争は1945年で完全に終わったと言えるわけではないし、元号の移り変わりによって区切りがつくものでもないと言えそうだ。

昨年の私の投稿の内容とも重なるが、平和とは、「争いがないこと」でも「武器がないこと」でもないと考えている。「安心して生きることのできる環境があること」。平和を求めることは「無」を求めることではなく「有」を求めることだと思う。


今日は西日本に台風が上陸した。前触れもなくやってくる地震と、動きや大きさの予測ができる台風とは対比されることがある。一方で、共通点は到来を防げないことだ。

しかし、戦争は到来を防げる。

今からでも遅くない。本当の平和を始めよう。

(文字数:1000字)

*台風10号の猛威を目にし、心を痛めています。中心から遠い地域でも影響が大きいとのこと、どうぞ安全にはお気をつけください。

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