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身体に心を支配される彼女を傍観しつつ思う

高校2年生の頃に古文に目覚め、今に至るまで折に触れて原典に触れてきた。家の本棚には『徒然草』をはじめ文庫化された古典が並んでいるし、図書館で借りて読んだものも含めればかなりの量を読んでいるものと思われる。

そもそも古文に関心を持ったのは、興味本位で友人とともに読んだ『好色一代男』がきっかけだった。その後も『好色一代女』『好色五人女』と進んでいったが、男子高校生の性的関心と結びついて「好きこそものの上手なれ」のごとく古文の読解力が身についた。もっとも、異性のクラスメイトからは「えっちな男子」としか思われていなかったけれども。


さて、私たちのような「えっちな男子」に限らず、多くのひとは人生のどこかのステージで遅かれ早かれ性的なことへの興味を抱き始めるらしい。それは自然なことであるし、だからこそ私たちはここにいるのだろう。異性に恋をするのもその一環であろうし、そう考えれば性は生活を色づけるエッセンスであるとも言えそうだ。

しかし、性の衝動はしばしば私たちを大きく揺さぶる。その衝動にうまく対処できなければ、人生を誤ることにもつながりかねない。その最たるものが、一時の感情に身を任せた性犯罪であろう。自らの性欲を屈折した感情に閉じ込めた結果として暴発するパターンが非常に多い。私は大学時代に性犯罪の実態と対策について法分野からの研究をしていたこともあって、この種の犯罪に対する憤りが非常に強い。

一方で、うまく処理できているようでコントロール不能になっているのが、私の知人女性である。大学・就職先ともに順調といえる人生の中で、最近ではあらゆる男性と枕を交わしているらしい。個人の自由であり最も繊細な性生活に立ち入ることはプライバシーの侵害であるから、これに対して何も言える立場ではないが、一時の満足が一生の幸せになるはずはないのだ。

思えば、インターネット上では男女問わず自らの性生活を暴露するのを最近頻繁に目にする。そしてそれに群がるインターネットユーザーたちがいる。性がオープンであることに特段の異論はないが、これがあるべき姿かと問われれば首を傾げざるを得ない。性が開放的であるが故の乱痴気騒ぎ。性が閉鎖的であるが故の深刻な性犯罪。やはり、どこか歪んでいる。


私の好きな古典の一つが、鴨長明『発心集』である。その冒頭を引用する。

――仏の教へ給へることあり。「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」と。


(文字数:1000字)

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