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存在の証明

たとえば、見慣れた顔。

家族、友人、同僚、恋人、ライバル。毎日のように顔を合わせ、時に喧嘩し、時に愛し合う関係だからこそ、互いを信頼できる。代わり映えしない彼らが、私たち一人ひとりを支えてくれているのだ。その誰もが今ここにいなかったら、世界はどう見えるだろうか。


聞き慣れた言葉。

「また同じことを言っている」。何度も耳にしている響きは、そんな反発心を生むこともある。それとは逆に、何度も耳にしているからこそ、安心感を与えてくれることもある。


言い慣れた台詞。

それは口癖かもしれないし、決まり文句かもしれない。口に馴染んだその音は、発する度に深みを増して、いつしか言外の意味さえ持ちうる。それは真の意味での自分の言葉だ。


読み慣れた文章。

好きな作家の小説や、好物の料理のレシピ。何度も反芻してなお、飽きることを知らない。そこに何が書かれているかは分かっているのに、それでも読み返してしまうのは、愛の発露に他ならない。


書き慣れた手紙。

紙に綴るものがあれば、心にしまっておくものもある。ひとは、誰かへの手紙を書き続けて歩いていくのである。届けたい想いを抱えることの充実感と空しさの狭間で、心の手紙は積み重なる。ひとは独りでは生きられない生き物だ。


歩き慣れた道。

何度も目にしている景色も、しばらく遠ざかると恋しくなる。旅から帰ってほっとするのは、やはりいつもの道に戻ったときである。


そんなありふれたもの一つひとつが、私たちにとって特別なものなのだとふと気づいた。


反復的なものごとは、ややもすれば飽きてしまう。その中で、「これでは感情のないロボットではないか」「ひととしての存在の意味はあるのか」という疑念さえ生まれてくるかもしれない。しかし、何かに「慣れる」ということそのものが、自分がここにいる事実を示してくれている。過去に自分が生き、今もここに立っているからこそ、ものごとに慣れてしまう。そして、未来の自分を想い描くからこそ、飽きるのである。

毎日のように奇想天外なことなど、起こりはしない。日々同じことをして、同じことを考えて、同じひとと顔を合わせる。それは人生が味気ないということではなくて、まさに「人が生きている」ということなのだと思う。


だから、人生がつまらないことを、人生を終える理由にしないでほしい。自分で自分の存在を否定することはできないのだ。「つまらない」という感情こそが、あなたの存在の証明だから。

(文字数:1000字)

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