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花瓶に注ぐ雨を乞う

目の前を電車が行き交う。通勤ラッシュを一歩引いた位置から眺めると、ベルトコンベアーに載せられた無感情な機械の移動のようにさえ思えてくる。かくいう私も乾ききった街へと毎日出勤し、神経をすり減らして生きている。そのことを自分の中では何ら気にしたことはないし、あるいはそれを気にすることができるほどの余裕はないのかもしれない。日々の生活をひたすら懸命に過ごすのみである。ゴールのないマラソンを走っている。

先日、突然「会いたい」と連絡してきた高校時代の友人と5年ぶりに会った。顔を合わせただけで、彼が疲弊しているのが感じられた。聞いてみると、自分でも原因がよく分からないという。ただ、時折何とも言えない空虚に襲われることがあるらしい。今の生活に満足していないわけではない。人間関係に支障があるわけでもない。それでも「何か」が足りないという感覚だけが強く心を刺激する。そして何が足りないのかを奥まで探していくと、「何もない」ということを自覚する。不満がない代わりに満足もない。悲しみがない代わりに喜びもない。こうして「心の中に何もない」という思いが心の中を埋め尽くして、彼は途方に暮れていた。

――私が小学生だった頃、自宅の玄関には小さな花瓶があった。まだ幼かった妹が植物に興味を示したことから、彩りも兼ねて花を挿すことにしたのである。妹は色とりどりの花を見るのをいつも嬉しそうに見ていたが、しばしば水の交換を忘れた。気づく頃には、既に乾いた花瓶の縁にしおれた茎が弱々しくもたれかかっている。今でこそ妹も笑い話にしているが、当時は元気のない花を見て泣いていたものだ。

水は蒸発する。特に熱を加えたりせずとも、少しずつ空気中へと消えてゆくのである。誰も知らないうちに、見えないほど微かに。もちろん、花自身も水を吸収しているけれども、それもいずれ蒸散されるものなのだ。空気中に水分が少ない時には、蒸発だけでなく植物の蒸散も速いらしい。

考えてみれば、彼も生気を失くした花なのかもしれない。

都会の排気ガスの空気の中で、気づかぬうちに蒸発してしまった「何か」はいつの間にか「何もかも」になっていた。いつしか空っぽになって軽くなった自宅の玄関の花瓶が地震で割れたように、空しい心もいつか突然壊れてしまうものだろう。そうなる前に彼が彼へと戻ってくる日を私はそっと待ち続ける。花がしおれたことを笑って話せる時が、いつか来るといい。

(文字数:1000字)

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