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まるで通過列車のように

それは去年の今頃だったろうか。通勤途中の乗換駅で、壁沿いに設けられた手すりを頼りにしながら、足を引きずって歩いている女性を見かけた。片手には松葉杖を持っている。ラッシュアワーを行き交う人々は、その様子を見て見ぬふりをするように、早足で女性の脇をすり抜けてゆく。


かくいう私も、遅延電車のおかげで時間に余裕があるわけではなかった。しかし、このまま無視することはできまい、と思い直して、女性に声を掛けることにした。後ろ姿で見るよりも、若い印象である。ひょっとすると、私と三歳と変わらないかもしれない、と思った。

「お手伝いしましょうか?」
「……ありがとうございます。松葉杖が慣れなくて」

その表情からは、やっと人が来てくれた、という安堵が感じられた。少し腰を低くしながら私が貸した肩に右腕を載せるようにして、彼女は松葉杖をトン、トンとつきながら歩いていく。


改札を抜けると、今度は地下ホームへ続く階段がある。エレベーターはあいにく休止中、エスカレーターはラッシュアワーに合わせて全てが上り方向に運転していた。

「ちょっとこわいかも」

隣でそう呟いた女性の声は、震えていた。片足をまともにつくことができない人が、階段を下るということを恐れるのは容易に想像ができた。

「ゆっくり降りていきましょう」

彼女に私の肩へ腕を回させて、私は彼女の腰の辺りを支えた。触れ合った瞬間に互いに走った特有の緊張感を、今でも鮮明に思い出す。


女性は私とは逆向きの電車だった。「助かりました」と頭を下げる彼女が車内に乗り込むのを見届けて、私は始業ギリギリの電車に駆け込んだ。


ただ、翌朝もその翌朝も、その女性と会うことはなかった。そのうちに、日々の忙しさに紛れて、その朝の些細なできごとは私の記憶から遠ざかっていった。


そして今朝、再び彼女の姿を見かけた。すっかり足は良くなったようで、通勤ラッシュの中を元気に歩いていく。その中で、女性はこちらをふと振り向いた。目が合った気がした。

「足、治ったんですね」
「あの時お手伝いした私です」

そう声を掛けたい衝動に駆られた。

気づいてほしい。あなたの今日に繋がるある日、私たちの人生の交差点があったことを。あの朝芽生えた、淡い恋心にも似た温かな幸せを。


しかし、そんな私の届くはずのない思いなど、些細なことだ。あの朝、足を引きずっていた彼女が抱えていたであろう、幾百の通行人に対する届かなかった切実な思いを想えば。

(文字数:1000字)

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