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vol.12 地と図

発見。前進。新たな境地。日頃から何かに頭を悩ませて生活していると、稀に救われる瞬間に出会う。それまで催眠にかかっていたかのように、全く新しいご褒美が降りてくる瞬間がある。そんなときに自然と口角が上がるのは、嬉しい、楽しい、わくわくといった感情とはひと味違う、震えるような喜びに包まれるからなのだろう。

先日、久しぶりにそんな体験をした。4月から入社する会社の同期と出かけたときのこと。まともに話すのは初めてのような間柄だったが、どこか波長が合うので、抱えていた悩みを打ち明けてみた。

それが、人間観察。街を歩いているときや電車に揺られているとき、目にした人の素性を妄想してしまう癖が高じて、本来注意を向けるべき相手がいる場面でも、関係ないところに目が移ってしまうようになった。居酒屋で友人と話した内容よりも、その肩越しに映っていたテレビドラマの台詞を鮮明に覚えていることもある。

ポジティブに捉えるなら視野が広いとも言えそうだが、誰かとコミュニケーションをとっているとき、この癖は単なる失礼にしかならない。完全個室の居酒屋を予約したり、空間全体を見渡さなくてすむような席を選んだりと、細々と改善に努めてはきたが、なかなか状況は変わっていなかった。

一通り話すと、美大出身の彼が一言。

「地と図だね。」

「地」と「図」。デザインにおける一丁目一番地の用語らしい。手っ取り早く説明できるのが「ルビンの壺」だ。

一見すると壺があるように見えるが、その背景に注目すると向かい合う二つの顔が浮かんでくる、という有名な絵だ。ここでの「壺」が「図」であり、「顔」が「地」にあたる。彼が言うに、この二つを操ることがデザインにおけるキホンのキになってくるのだとか。メインとなるもの(=図)をただ描けば良いのではなく、それを引き立たせる背景(=地)にも気を配る。ルビンの壺でいえば、壺が真ん中に大きく描かれているのか、それとも端の方に小さく描かれているのかで、見る側が受ける印象は全く違うものになる。

「地が好きなんだろうね。」

彼が続けた。なるほど。僕が好きな人間観察は、本来は気づかないような、雑踏に紛れ込む存在に目を向ける行為だ。それはすなわち、「図」を差し置いて「地」にスポットライトを当てる行為に等しい。

この日を境に、僕はあらゆるものに「地」と「図」のレッテルを貼るようになり、それを面白がるようになった。

朝。起きてすぐ散歩に行く。まだ脳が働いていない状態で、ぼんやりとしながらぶらつく。飛び込んでくる景色の大半は「地」だ。寝起きには少し刺激の強い日光、昨晩の雨で水たまりが点在する道路、まだシャッターの上がっていないお店たち。足早に駅に向かう人の群れも、このときばかりは気に留まらない。何かに着目することなく、展望台から街を見下ろすように、流れゆく景色を俯瞰している。

日中。この記事の完成に取りかかる。ノートPCの画面が「図」で、それ以外が「地」。ただ恐ろしいことに、この「地」から「図」に変貌しようとしてくるものたちがいる。スマホ、YouTube、テレビ。シンクに放置した洗い物や、買い忘れた食材たちだってそうだ。これらのアピールを振り払い、たった一つの「図」に集中することは、なかなか至難の業である。

夜。布団のなか。この時間には魔物がいる。「どうでもいいこと」だ。視界が真っ暗になると、日中は気に留めなかったことをあれこれと考え始めてしまう。夕立のように、ぽつり、ぽつりと湧き始めて一瞬で脳内を埋め尽くしてしまう。こんな調子では眠れないので、いつも枕元にはラジオがある。「地」だったはずの取るに足らないことが、「図」に化けて襲ってこないように食い止める。頼れる「図」を使って「地」を「地」のままで留める。

こんな調子で生活のあらゆる場面で「地」と「図」の対立を楽しんでいると、あることに気がついた。この世の全ては「地」であり「図」だ。命持つもの、持たざるもの関係なく、存在するあらゆるものが両方の要素を兼ね備えている。

道ばたにひっそりと佇む植物も、観察しようと近寄れば立派な主人公だ。駅前で観衆を前に演説する政治家も、その脇を通る人にしてみればなんてことない景色の一部。その存在がどれだけフォーカスされるかによって、「地」にも「図」にもなり得るのだ。

もうひとつ得た気づきがある。「地」はあなどれない。

先日NHKで放送された、歌人、俵万智さんのプロフェッショナル。「サラダ日記」などの作品を多数発表する彼女にとって、日常は「油断ならない」ものなのだとか。見逃してしまいがちな些細な一瞬にフォーカスし、その情景を31文字で表現する。途方もなくかけがえのない一コマを、何時間もかけて作品に昇華させる姿を見て、僕は自分を肯定された気がした。

僕がNoteを始めたときから、プロフィールに書いてある一文。「シンプルなものを構造化して考えることが好き」。当たり前すぎて見逃しがちなことも、向き合って一つの論理にすれば、新たな発見がある。そんな思いもあって、日々の出来事を言語化するようになった。これはまさに、「地」に目を向ける行為だったのだ。

過ぎゆく日常の中で、ほんの少しだけ立ち止まってみて、周りを見渡してみる。通学路から砂金を見つけ出すような行為は、言うなれば「地」だったはずのものから「図」を生み出すことに等しい。僕は美大出身ではないけれど、こうして日常の一コマを自分なりにデザインすることだって出来る。

そして、僕が一番頭を悩ませていた、人とのコミュニケーション。「注意を向けるべき存在」と「それ以外」だったものに、それぞれ名前がついた。生活のあらゆる場面で、僕たちは「地」と「図」の比率を決めている。何にどれくらい注目して、どこまでぼかしをいれるか、瞬時に判断している。目の前の人に集中しようと思えば、「図」の度合いを高めれば良い。その日その瞬間に描きたい一枚の絵画を目指して、二つのダイヤルを駆使して、思い思いに調節すれば良い。今までは感覚でそうしてこようともがいてきた。けれど、かくもイメージしやすい二つの武器を手に入れた。また少し、人付き合いが上手くなっていてほしい。そしてこれこそが、時間をかけて思いを言語化する真の目的とも言えるのだ。

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