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文化相対主義をどう考えるか

 今一度、文化とは何かを考え直さなければならない時期に来ていると私は思う。文化の違い乗り越え、共生するための努力を継続する姿勢を未来に繋げることが今とても重要だと考える。 
 それぞれの国や民族が持つ文化は等価値で、外からの価値観によって優劣をつけることができないとする文化相対主義という考え方がある。一見万能な考え方のように思えるが、しかし中にはそれだけでは捉えきれない問題もあるのだ。例えば、私たちが当たり前だと思っていることは、他の国には当てはまらない場合がある。つまり、文化相対主義とは、「正解」はそれぞれの文化の中にしかなく、その「正解」は外へ持ち出すことが出来ないという考え方に言い換えることもできる。
 一部のイスラーム教の国には「名誉の殺人」という風習がある。女性が婚姻拒否、駆け落ち、自由結婚することは穢らわしいことと彼らは考えており、そのようなものが家族の中から出れば、家族の名誉を守るためにその者を殺すというものだ。これもれっきとした文化の一つと言える。殺される女性は、当然我々と同じ人間であり、人権を持つと私は考える。だからこそ、異文化であるからといって無批判に受け入れて良いものでは無いと考える。やや極端かもしれないが、その事実を見過ごすということは、その人は殺されても良い人間で、一方私は生きても良い人間だと自認する、つまり人間に優劣があることを認めてしまうことになる。「それ(殺すこと)はダメだ」という価値観はその国の外に住む我々のものである。彼らにとってそれは正しいことなのだ。その文化に対してだけ批判するということは、その文化は異常である、あるいは他より劣っていると伝えることにはならないだろうか。「全ての文化が等価値であるなら、何故我々の文化だけ悪く言うのか。我々の文化は普通ではないのか。」と、なるのは当たり前だ。基本的に、すべての文化は等価値で優劣がないというのが私のスタンスだ。けれども見過ごしても良いものではないとも考える。何を基準に、誰がして良いことと悪いことの区別をするのか。
 私は「正解」というものがないという風に考える。文化相対主義における「正解」とは、自分達の中にしかないのだから、ほかの国に対して自分たちの思う「正解」を当てはめることはできないのは当然だ。つまり、イスラーム世界の先に挙げた例でいうと、彼らは殺すことが「正解」だと思っているのだから、私たちの「人を殺してはいけないという考えが正解」というのは通用しない。けれど、何度も言うように、同じ人間が殺されているという現実を無視することもできない。つまり、文化相対主義のような「正しさはそれぞれ」という考え方では、その枠内に収まりきらない現実がある。逆に「正しさは一つ」とする考え方もあるが、この多文化世界においては不可能だ。
 したがって、明確な「正解」は中にも外にも無いのだという意識を、我々はそれぞれ持たなければならない。また、文化は時代によって変わる。だからこそ、対話をしてその時々に応じた「正解」を共につくることが必要だと思う。「正解」は無いからこそつくることが可能なのだ。その時、自分たちの文化こそが正しいという意識を持っていては、対話は生まれない。文化相対主義の「正しさはそれぞれ」に拘りすぎると、互いに考える「正解」は異なるので、両者に摩擦が生じてしまう。
 「正しさはそれぞれ」という考え方だけでは収まりきらない問題もあることをここまで話してきたが、次はその言葉が帯びる意味を見ていこう。
 誰かと会話をしていて意見が食い違った時、「これ以上この人と会話をしても仕方がない」「考えが違うのだから、理解し合えない」と思った時に便利な言葉が、「正しさはそれぞれ」や「人それぞれ」ではないだろうか。この言葉を放ってしまった瞬間、対話はそこで終了。何も生まれない。ある種、面倒くさくて早く会話を切り上げたい時に使うのではないだろうか。これは、性的マイノリティの問題でも同じことが起こっていると考える。少数派のために、多数派によって成り立っている社会を彼らにあった形にシフトしていくことは簡単なことではない。言葉が悪いが、それは面倒なものとも言える。しかし、今やその面倒なことに取り組まなければならない。面倒だからやりたくないが、期待されているので、とりあえず吐くことばが「正しさはそれぞれ」「人それぞれ」ではないだろうか。この言葉によってマイノリティの人の中には満足する人もいる。いやいや、待ってくれ、それでいいのか。結局何も生まれていないではないか。それは、多様性を認めることではなく、存在を認めていることにしかすぎない。私にとっては、面倒なのでその場しのぎに吐いた言葉にしか聞こえない。
 だから、「正しさはそれぞれ」という言葉の意味を履き違えないようにしなくてはならない。多様性を認めることはもちろん良いことだ。しかし、時にその言葉は、対話の機会を奪ってしまい、結果何も生まない、全く生産性のない言葉に成り下がってしまいかねない。
 「正しさはそれぞれ」という考え方が万能ではないこと、そしてその言葉自体が帯びる意味も決してポジティブなものばかりではないことを知ってもらえただろうか。これからのグローバル社会、共生することが不可欠となる中、互いに理解することが必要となる。そのためには対話が必要であるが、「正しさはそれぞれ」では、対話は生まれない。たとえ実現してもそれに拘りすぎると、対話は持続しない。何かを意見された時には、「正しさはそれぞれであり、自分は自分である」という意識は時にとても大切なのだが、一度忘れ、聞く耳を持つ努力をする必要がある。逆に意見をする時には、聞く耳をもってもらえるような態度をこちら側が示さなければいけない。そして、意地でも対話を続けていく姿勢が今後とても必要だ。だから易々と「正しさはそれぞれ」という言葉を吐いてしまってはいけないのだ。

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