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人の顔の説明はできないが識別ができるのはなぜなのか?ー人間が持つ認知機能の不思議ー

「意識と無意識」と区別される人間の二つの意識は、全く違う能力を有している。人間は両者の能力をフル活用して、「当たり前の毎日」を過ごす。しかし、人間の「当たり前の毎日」の中には、考えてみたらなぜ自然にできているのかわからないような高度な芸当で溢れているのではないだろうか?そこでこの記事では、この二つの意識の働きの違いについて考えていく。

まず、人が意識的に言葉で表現できることは限られている。例えば、多くの人は自分の知っている事のほとんどを覚えていないし、語る事ができない。しかしだからと言ってその人が何も知らないのではない。無意識的に自分が知っていることを、「意識的に語ること」ができないのだ。

例えば、人との会話の中で滑らかに出てくる思いつきの言葉や、その時に使った知識の内容を、その後に何時間かけても全てを文字に起こすことなんてできない。
やろうとしてもどこかで嫌になってその作業を投げ出すだろう。要する、僕たち人間の知識のほとんどは無意識の領域に内蔵されていると言える。そしてその知識を部分的に意識が変換して、「語り」などを通して表現することができるのだ。

・人の顔を説明するために意識は何を語れるのか?

人の顔の種類は人間の数だけにあるが、人は友人や家族の顔を識別できるし、もっと見慣れてくると歩く後ろ姿を見るだけで、その人が誰だか推測できるようになってくる。

高校や大学の最寄り駅から学校までの通学路で、後ろ姿を見ただけで
『あの人だ』と思った経験は、誰しも何度もあるのではないだろうか。そして実際に隣に近づくと、想像通りに、その友人なことが多い。

その時人は、顔や体の様々な諸部分(鼻や口、顔の曲線、歩き方、体の傾きなど)を無意識的につなぎ合わせ、「自分が知っているあの人だ」と、全体として認識する。その認識過程のほとんどが無意識的な営みなのだ。

無意識の営みである故に、ほとんどの人は『あの人』の顔や後ろ姿を、人に説明する事はできないだろう。無意識の認識過程を意識的な語りに変換することができないからだ。無意識の世界の営みをいわゆる自分の「意識」の世界に変換する事はできない。その変換には質的限界がある。

こんな例はいくらでもある。『歩き方』もその一種で、大人は誰も歩き方を意識的に説明する事、つまり言語化する事はできないが、人は2歳になる頃には既に歩き始めている。そして歩き方を親から説明されるわけでもなく、自然にできるようになっていく。

つまずいて転びそうになった時、人は地面の状態や体の体制を考慮して、瞬時に全身の筋肉を動かし顔面を地面に打ち付ける未来を回避する。これはとても高度な芸当で、それを言語化する事はできない。

「スポーツをすること」も無意識の営みだ。プロスポーツ選手の技術はその最たるものといえるだろう。サッカーやバスケットボール選手は今のチームの状態・試合の戦局を一瞬で計算して今とるべき行動の判断を下す。判断を下すこと自体は意識の営みと言えるが、なぜその決断を行なったか?を説明する判断材料の多くが何だったのかを、後から意識的に完璧に説明するのは難しい。インタビューなどで、あの試合のあの場面では、という話をよく聞くが、それは無意識のプロセスを意識的認知プロセスに変換したものにすぎず、その変換の際に多くの情報が欠損する。それゆえにその場でその人が感じていた臨場感のようなものを言葉で伝えるのは難しい。

そしてもしプロスポーツ選手の技術を身につけたかったら、それは彼ら彼女らの動きを『言語化して理解する』だけではもちろん不十分だ。その動きを無意識的に行えるようにならないと、彼ら彼女らと肩を並べる事はできない。

車の運転の仕方をいくら座学で学び、その方法を意識的に言語化できるように
なったところで車を運転できるようにはならない。言語化できる知識と技能は
前者は意識、後者は無意識の営みであり、全く異なるものだからである。数式の定理を理解したところでそれを実際に練習問題で応用して使いこなせることはできない。それができるのは一握りの天才だけだ。

・人間の生命活動の大部分が無意識の営みによる

人間は高度な言語力を持っているが、その発達は人類の歴史の中では比較的短いと考えられる。これは仮説の域を出ないが、人間が「意識」というものを認めるようになり、意識と無意識を分離するようになったのも比較的最近の出来事だろう。

人は無意識を意識より劣ったものとして考えがちだが、それは「物事を、言葉という道具を用いてを定義するのが意識だから」であって実際の重要度は明らかに無意識のが高い。

『私たちは語る事ができるより、多くの事を知る事ができる』。マイケル・ポランニーは著書『暗黙知の次元』の中で述べた『暗黙知』とは、先にあげたような無意識の営みである。この、『語る事ができる事』は意識の営みであり『多くの事を知る』は無意識の営みである。そしてその総量は圧倒的に無意識によるものが多い。

生命活動をする上でも、ほとんどが無意識下で行われる。呼吸は当たり前にできるし、何かを触ると神経が活性化し脳に伝わり「触った感覚」を覚える。こういった生命活動にまつわることを全て意識が行っていたら脳が情報過多でパンクするだろう。無意識の営みが意識のパンクを防いでいる。

・無意識の過程を磨くためには何ができるのか?

では、日常生活の大部分を占める無意識の営みを磨くには何ができるのだろう?

文章を書く時、物語を考える時、運動をする時これら以外も含めた多くの営みが
無意識によるところが大きい。そして、そうであるならば、「美しい文章を書きたい」ならばやるべきことは、「どうすれば美しい文章をかけるか意識的に理解しようとする」のではなくて「美しい文章を読んで無意識的に感動する」方が重要だ。

なぜならそうすれば、無意識が勝手にその感動から学んで、意識が実際に使えるように加工して頭の中に置いておいてくれるからだ。

例えば、面白い話ができるようになりたければ、面白い話をする人の言葉、声の出しから、雰囲気、テンポをまずは沢山観察する必要がある。その時に観察する対象が、「会社の同僚のちょっと面白いやつ」ではダメだ。プロとして活躍するお笑い芸人の方が望ましい。

なぜこの人は面白いのか?その答えを体に染み込ませるために何度も観察し、実演し、観察し、言語化し、を繰り返し、意識と無意識の思考プロセスを何度も反芻する必要がある。その過程を経て、気づけば自分が「面白い話をできる人」になることができる。しかしその時、「自分がなぜ面白いと思われるのか?」を完璧に言語化し人に伝えることはできない。なぜなら面白いと人に思わせる大部分の所作が、無意識的に行われていることだからだ。

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美しい文章、と言われると三島由紀夫が思い浮かびます。というか、「純文学」というジャンルが思い浮かぶのですが、その中ジャンルの中で「三島由紀夫ぐらいしか知らないから」、三島由紀夫しか思いつかないという悲しい事実があります。
いろんな文学作品をちょっとずつ読んで、美しい文章に触れていきたいと思います。
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れんてん

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