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空気としてのジェンダー論

森さんが引責辞任して、なんだか関係者も問題にちゃんと向き合わないまま、シャンシャン(死語)になっていこうとしています。
この、「厄介な話は、まぁ建前上反省(&撤回)したってことで・・」とうやむやにする感じが、ザ・ジャパニーズ・クオリティ。
あーあ、またこれで問題の核心は、大多数の男性陣に理解されぬまま、
次の問題が起こるまではしらけた空気になるんだろうなと。

そんなあきらめを感じていた時に、元同僚がFacebookに、「森さんかわいそう」的なメッセージを出しました。で、まさか‥と思ったらそのコメント欄は、賛同の嵐。しかも女性まで。
頭くらくらしました。

問題が理解されないというのは、断絶というのは、こんなにすぐ近くにあるんだなと。

そもそも、この件をちゃんと問題視して発言して許される男性って、日本にいるんだろうか。絶対そんなにいないはず。よほど家のことをやってて育児にも参加してる男性ならともかく。女性ばっかりの企業の中で、もまれてるとかでない限り。

ジェンダー問題、いったい誰が悪いのか問題

そう、ジェンダーの問題がめんどくさいのは、当事者である男性のほうに、まったく加害者意識がないってこと。それはなぜかっていうと、別に
彼らだって、好きで男性に生まれてきたわけではないし、差別したくて差別してるわけでもない。昭和の男子は、母親から、「男なんだから威張っていいんだ」「家事なんかは女がやるんだから」って育てられてきたから、なにもできないだけで、自分から選んでそういう思想に染まったわけではない。

同じことは女性の側にも言えて、昭和な女性たちは、別に悪気があって、男性を腑抜けに育ててるわけではない。
どんなにパートで忙しくても、家に帰ってくれば夫がひっくり返ってテレビ見てて、洗い物が台所に積みあがってて洗濯物は取り込んだだけで放置されてても、あわてて夕飯をつくる。そんな光景は、つい最近まで別に何も問題視されてなかった。だから当事者だって、それが何か問題だとは思っていない。

でも今どきの嫁の私からすれば、同じように働いているのになぜ男は家のことをやらないのか。そもそもやる能力がないのか。やる気はどこにあるのか。根本的に意味わかんないって思うし、それを野放しにして甘やかしている女性にも腹が立つ。

何なら、「旦那様のおかげで今日も美味しいものが食べられるから感謝」とか言ってる「謙虚な」同世代の女性にも腹が立つ。

そういうちょっとしたそれぞれの無自覚の積み重ねが、問題を覆い隠してしまう。

男性は、この、男性にちょっとだけ有利な空気に包まれていたほうが楽だから、基本的には、変えたくない。
昭和な父の、「一家を養う」的な責任はとっくの昔に放棄しているけど、だからと言って、家事育児をイーブンに背負う気はあまりない。
だって、世の中みんなそんな雰囲気だし。そういう空気じゃん。

家庭は女性に任せてるんだから、職場でまで女性に仕切られたくない。
大体、女性はすぐに子どもがどうの家庭がどうのと仕事に100%コミットしてないから、同じレベルで話ができない。
「女は、同じレベルに達してない。だから、お話にならない。」

その空気。女性が職場では劣っている存在である、という共通認識。

その認識のせいで、女性はどんどん自信を削られ、長い時間をかけて、
脱落していく。男が作った男のための競争社会の中から。
何なら、家庭を言い訳にできる女性はラッキーだと思われる。
「いいよね、家族のためって言えば、会社で脱落しても言い訳ができるから」

女性たち自身も、男性には仕事の面で劣っているという認識でいるのは間違いない。
確かに、120%仕事に時間をかけられて、さらに家庭でサポートが受けられたら、男性のほうが有利に決まっている。

結婚も育児も、男性にとっては、何のネガティブにもならない。
でも、女性は違う。結婚や出産をすることは、第一線で男性とは張り合えなくなるということだったりする。(そうじゃない稀な女性もいるとは思うけど)

女性は、ある一定の年齢を過ぎると、自分には、もう男性と戦えるだけのスキルも、実績もない、才能もない、と絶望する。
それは、単にその機会に恵まれず、周りからもそう扱われず、
どんどん自信がそがれていった結果なだけかもしれないのに。

ジェンダーギャップの空気が生み出すもの

かくして、空気としてのジェンダーギャップが生まれる。
空気は、確実に、結果に作用する。

男性が女性より仕事で優れているとしたらそれは、
ただ単に、条件が違うからだ。
そもそも職場環境が男子に有利にできているからだ。

男性に有利なルールだから、男性が勝っているだけだ。

たとえば、「女性は感情的で議論ができない」とよく言われる。

確かに、男性よりは、女性は感情豊かで共感力も高い。
でも、それは利点でもある。
男性が多い社会では、感情的であることは悪かもしれないけれど、
もしも共感力が求められる女性に有利なルールだったら、
男性の理性的過ぎて相手の感情に鈍感な特性は、マイナス評価になるはずだ。

要するに、男性女性、どっちが有能かっていうのはナンセンスで、
男性の基準に女性が合わせているから、総じて男性に女性が劣っているように見えるけれど、ルールをひっくり返してみれば、どっちが有能なんて言えないはずだ。
いや、家庭での采配を見る限り、女性のほうが実務レベルは上だという気もするし、就職試験で、優秀な人を上から性別抜きで選んでいくと、全員女性になってしまったっていう話も聞いたことがある。つまり、脳みその作りとかでは男女の差なんか絶対にないはずだ。

あるのは、徐々にそがれていく自信。
劣っているのではと思わされる空気。
「女性らしい幸せ」を追求しなくてはいけない圧力。
「女性だったらこうすべき」という空気。

この空気を作り出しているのは、別に個々人の男性でもない。
女性もない。
ただ、無自覚に生きているすべての男性女性が、この空気を許容し、
疑問も抱かず、再生産している。

誰かが、そこに疑問を呈さない限り。
誰かが、それはおかしいと声を上げない限り。

ただのファッションとしてのジェンダー論ではなく。
数値目標だけのジェンダーギャップの解消ではなく。

1人1人がもう一度、この空気の正体を考え直すべきなんじゃないかと思う。

私自身も。
自分が男性に劣っていると無意識に引き気味になってしまうことや、
「あるべき女性としての態度」を無意識に選択していること。
すべてを疑い、すべてをとらえなおしていかないと。

ジェンダー問題とは、私たちの、男性も女性も含めた
現代に生きるすべての人間が加害者であり、被害者であるのだから。

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