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大江健三郎の死と父の死から考えたこと

作家の大江健三郎が亡くなった。
88歳。私の父の一つ上。学年で言うと2学年上だ。
大江健三郎の出身地は愛媛県喜多郡大瀬村。現在の内子町だ。

先日、亡くなった松本零士が愛媛の大洲市に疎開していた時に見た蒸気機関車の風景が999の原風景だということを書いたが、大洲から内子町に向かう、当時は内子線と呼ばれていた路線を走る機関車を子供の頃の松本は見ていた。大江健三郎は松本零士の3つ歳上。彼もまた、この機関車を見ていたことだろう。松本零士が山に掘られたトンネルから出てきた機関車が宙(そら)に飛び立つ姿を空想した一方で、大江健三郎はそのトンネルによって穴を開けられた山の谷間の小さな村を小宇宙と見做して、虚と実を超えた世界を描いた。そして、彼らの描いた物語は多くの人に受け入れられ、世界に羽ばたいていった。なぜ羽ばたいていったなどと書くのかというと、昨年末に亡くなった私の父がちょうど彼らと同世代で、父は、少なくとも大江健三郎に対しては、同郷の同世代が文学で世界に受け入れられていく様を見ながら、自分と比べてしまうこともあったであろうからだ。

私の父は作家になりたかった、、、のだと思う。私が小さかった頃は地元で短歌会も主宰していたし、作家になりたかったという話も聞いたような気もする。なんとなく、そうなのだという空気が家族の中にはあり、私は、お父ちゃんは作家になりたかったのだと信じていた。多分、本当にそうだったのだろう。うちには田舎の貧しい家には普通ないほど本がたくさんあったし、それらはベストセラーなどではなく、日本や世界の近代文学や宗教の歴史や、書くことに興味のある人間の本棚にあるようなものだったからだ。

自分より一つ年上の大江健三郎という人が、若くして鮮烈な作家デビューを果たしている。それも、同じ愛媛県で、自分よりもずっと田舎の山奥の出の青年である。父が気にならなかったはずがない。

大江は当初、地元の内子高校に進学したが、(Wikipediaによれば)いじめにあって、松山東高に転校した。そして、ここで伊丹十三に出会っている。松山東高といえば、県内トップの公立高校であり、その後、大江は東大に入っている。その環境の中で伊丹に出会ったことは、その後の大江の人生に大きな影響を与えただろう。もし、大江がそのまま内子高校にいたら、ノーベル賞作家にまでなれていただろうか、、、。人の人生は本人の才能や努力のみならず、誰と出会うかや置かれる環境によって左右される。ある意味、後者の方が人生に与える影響は大きいかもしれない。私の父は、デビューした大江のプロフィールを見ながら何を思っただろう。

父は高校の頃は成績も良かったらしいが、3歳の頃に父、つまり私の祖父を亡くしていて、家は母子家庭。祖母は商売が下手で、家業は傾いていき、大学に行くことは出来なかった。あるいは祖母1人を残して東京に出ることができなかったのかもしれない。かといって、表具や建具を作っていた家業を継ぐことも本意ではなかったようで、昔からうちの家が信仰している黒住教の本部の黒住教学院に行っていたこともあったようだ。しかし、そこで学んで、黒住教教会所の所長になる道も選ばず、私が生まれて物心ついた時、父は家業を継いで、障子や襖の張り替えをしたり、額縁を作ったりしていた。表具もやっていたので、暮らしが洋風化される以前は掛け軸の注文もあり、私の曽祖父の時代には茶の湯を嗜む人との交流も多かったそうだ。曽祖父は茶道具も揃える茶人だったらしい。しかし、父はそうした気取った趣味にまったく興味がなく、まして、それを商売に利用しようという考えなど、これっぽっちも持ち合わせなかった。そして、うちの家業はどんどん傾いていった。私も子どもながら、父のそういうところに浮世離れしたところを感じとり、物書きになる姿を想像したりしていた。

しかし、宗教家も物書きも時代と寝る覚悟がないとできない職業だ。実のところ最も俗っぽい職業なのかもしれない。父が東京に出ていった大江健三郎の成功をどう思っていたかはわからない。しかし、父には、都会に出てさまざまな環境に揉まれ、世俗にまみれながら物を書き続けるという環境に耐えられるほどの強さや強かさが足りなかったように思える。父はナイーブだった。そんな父のナイーブさは子どもの私にもなんとなく感じられ、それが作家の資質のようにも見えた。しかし、それでは足りないのだ。
大江健三郎はいじめで内子高校を辞めて、松山東に転向したというが、やはりそれは田舎の進学校でもない高校生には意味不明なことを常日頃から考え、周囲と息が合わなかったからではないだろうか。当時の内子高校よりはレベルが高いとはいえ、松山東に比べれば学力に劣る高校で仲の良い友達がいたうちの父などはまだまだ普通。大江とはレベルが違うのかもしれない。

結局、短歌会がなくなって以降亡くなるまで、父がなんらかの作品を書いていた形跡はなかった。昔から土地の私有はおかしいと言い、まだベーシックインカムという言葉がそれほど広まっていないときから、それを導入するべきで、確か、そのことをブログに書きたいと言っていた。しかし、パソコンの使い方を覚えることができず、ブラインドタッチを学ぶわけもなく、私にパソコン上にリライトして欲しいと言って、短い文章を書いてよこしたこともあった。しかし、忙しかった私は、父のブログを立ち上げるまではしたものの、ベーシックインカムの文章をリライトするまでには至らず、その文章が日の目を見ることはなかった。実際、父が鉛筆で便箋に書いたその文章は私が想像していたよりも稚拙で、長い間文章を書いていなかったブランクを感じさせた。しかし、それでも、私はその文章をネットで公開しておくべきだったと、とても後悔している。

作家になりたいのならば、なぜ父は書こうとしないのだろうと子どもの頃には思っていたが、父は自分がプロとしてやっていくのは難しいとわかっていたのかもしれない。大江健三郎の作品についてその難解さを批判していたこともあった気がするが、その難解さを解さなければ受け入れてくれないものが文壇だとしたら、そんなところには入りたくないし、また、自分がそこの仲間になることは無理なのかもしれないとも思っていたのだろう。

なのに、その娘である私は、そんな「作家になりたかった父親」を持ったことで、「文章を書く」ことが自分のミッションであると信じ込んできた。本を読むのが特段好きでもなく、文学少女でもなく、ただ好奇心が肥大しているだけのただのミーハーなのに、、、である。
昨年末、父が亡くなった時によくよく考えて思ったのはそのことだ。私は職業作家にはなれていないものの、こうして文章を書き続けているのは、父が果たせなかった夢を実現しようとしているからではないかということ。私にとって「物書きになる」ことは自分の中の衝動というよりは、「家業を継ぐ」ことに近いのかもしれない。

父は家業の表具建具の職人としては、一流とは言えなかった。その技術に特段興味を持っているわけでもないようで、日々、腕を磨いているようでもなかった。そんな姿を見ている私にとっては「家業を継ぐ」ことは表具店を継ぐことを意味しなかったのだ。

子どもの頃に見た父の姿で最も輝いていたのは短歌会を前に会員から集まってきた歌を、ガリバンを切って印刷する時の笑顔だった。そう感じている私にとって、やはり父がやりたかったのは作家業で、その実現できなかった夢を実現することが「家業を継ぐ」ことだったのだ。

その思いは、その後、その時の状況や時代背景によって微妙に変化し、小学校の卒業文集では将来の夢のところに、ウケを狙って「大統領」と書いてみたりもした。大学生の時の就活では、テレビや出版社、広告会社など、表現活動に関われるならいいやという感じでマスメディアを色々受けてみて、結局はお笑い好きという辺りから入ったテレビの制作会社に入社することになった。実際に就いた職は、いわゆる物書きからはちょっと遠ざかってしまったが、私はテレビ的な仕切り屋にはどうしてもなれず、ナレーションを書くことを物書きになりたい願望にすり替えてみたりした。しかし、それでも満足できず、やはり、こうして、あまりお金にもならなくても勝手な文章を書き続けているのである。

なぜ、あなたは物書きになりたいのか、世の中に何を訴えたいのかと言われて、改めて考えると、私に訴えたいことなんてあるのだろうかと思う。なのに、私は書いている。本を読むのは未だにそれほど好きではない。その時に必要な本を開いているだけだ。タイトルや惹句を見て面白そうだと思い手に取ることは多いし、かなりそれを買ってもきたから、一見は本好きであるが、実際には積読も多い。なのに、それでも、「文章を書くこと」は自分にとってのミッションのような気がしている。

それはやはり私にとっての「家業」だからなのだろうか?
結局、私がやりたいことは「家業を継ぐ」ことだったのだろうか?
父が果たせなかった夢をはたすことだったのだろうか?
自分のやりたいことをやりなさい、自分軸で生きなさいとはよくいうが、自分が魂からやりたいと思うことは本当はなんだったのだろう。

私は1人田舎から都会に出てきて、自分の好き勝手にやってきたように思っていたが、結局は父母のできなかったことを都会に出て成し遂げようとしていただけだったのかもしれない。それをまるで自分だけの意思のように自分でも思い込んでいたのか?
もはやその思いは父の影響なのか、自分発のものなのかはよくわからない。多分、その両方なのだろう。

私はある時期から、自分が面白いと思ったことを人に伝えるのに喜びを感じていることには気づいていた。しかし、優等生であったにも関わらず文章が下手で、人の心に響くような伝え方ができなかった。自意識過剰で、正直な思いを正直に言葉にできなかったからだと思う。成績は悪いのに作文の上手い子が、授業で作文を読むのを聞くたびに、自分の文才のなさに打ちのめされていた。しかし、国語の成績は良かったことや、家にたくさん本があり、父は短歌会もやる、かつては作家を目指していたということを心の拠り所にして、私も上手い文章がいずれ書けるようになるはずだと信じ続けていた。
私は、人に自分の思いを的確に伝えたい自分の願望を遂げるために、文章が上手くなることを願い、それを願うが故に、物書きになることが遠い目標となったのかもしれない。しかし、その背景にはやはり私があの父親の娘であり、子どもの頃を何となく文学的な空気を感じながら過ごしてきたことが根強く存在しているのだ。

結局私は文学少女になることもなく、どちらかというとスポーツ少女として高校までの時間を過ごし、ミーハーなテレビ大好き人間に育っていった。しかし、本がたくさん身の回りにあるという環境と父は作家になりたかったんだという思いが、私を文章の世界に引きとどめていた。

小学校に入る前から、父母に連れられて市立図書館に連れていってもらい、2週間に一度は子供向けの本を借りてきていたから、小さい頃は結構本を読んでいたと思う。うちの家はお金はなかったけれど、このように親子3人で図書館に行ったり、ガリバンを切って短歌会の資料を手刷りで印刷したり、当時にしては結構文化的な日々を送っていたと思う。しかし、世の中が大量消費社会に変容していくに従って、私も外からやってきた俗な欲望に侵食され、せっかく小さな頃に身につけた、育ちの良い子供のような習慣を少しずつ捨ててしまったのだ。

私が文章を書くことを捨てないのは、お金はなくとも文化的だった子どもの頃の日々を幸せだったと思っているからかもしれない。その後の資本主義が肥大した大量消費社会においては、なんの取り柄もなく、お金を稼がないことを責められ、社会に積極的に関わることをやめてしまった父が、とても活動的に見えた短歌会をやっていた頃。子どもの私もそんな姿を頼もしいと感じていて、裏側にはお金にならないことばかりやっても、、、という大人の思いはあったろうけれど、子どもの私にとっては幸せな時間であったし、親を誇らしくも感じていた。時代の変化に勝てなかったのは父の弱さもあったろう。けれど、それは時代に飲み込まれなかったということでもある。私も母もお金がなかったことを恨みに思ったこともあるが、この嫌な時代に迎合しない父を別な形で励まし鼓舞する方法もあったのではないかと今になって思う。

しかし、それがわかるほど、若い頃の私は賢明ではなかった。それと全く真逆のテレビの世界に入り、一時は大量消費社会の権化になってしまう瀬戸際にいたと思う。しかし、テレビの世界に入ったことを悪いことだとは思わない。中に入ったからわかったことがあるし、だからこそ、今、こんなことを語っていられるのだと思う。

本当は父が生きている間に、作品と言えるものを書いて、渡したかった。職業としても、もう物書きといえるよと、父に胸を張って伝えたかった。それを目標に、私は自分の命が危うくなってからもなんとか生き延びようとしてきた気さえする。でも、残念ながらそれはもう叶わない。そうなった今、私にできるのは自分が死ぬまでに私は物書きですといえるようになることだ。いや、それさえももうどうでもいいのかもしれない。物書きであろうがなんであろうが、自分が今言いたいと思っていることをどんな形でも伝わる形で伝えることができればいいのかもしれない。文章でも、音声でも、映像でも、なんならテレパシーでも。

身体は動きづらく、薬を飲んでいないと、脇の下あたりが少し痺れてきて、パソコンで文字を打つのも少し億劫になる。なんとか改善させたいが、こんなに夜遅くまで起きていたんじゃダメだな。なんとか養生して、自分の体に奇跡の改善をもたらした

そろそろYoutubeでしゃべることも始めよう。
それも仕事にしよう。まずはお金の心配をなくしたい。
父が若かった頃とは時代も違う。その後の大量消費社会も超えて、格差社会が到来。全てをお金の観点で換算する思想が行き渡ってしまった。今やお金の心配さえなければほとんどの悩みは消えてしまうほどの嫌な世の中だ。けれどその分、お金の心配をなくすだけで、ずいぶん悩みが減って、そのパワーで人のため世の中のために尽力できるのではないかと思う。これまでの経済システムに乗っかるのとは違う形で富を生み、生き延びる方法を模索したい。

Youtubeというのも、現代社会のシステムといえばそうだし、これで生活できるほど稼ぐのはなかなか難しいが、一般社会からドロップアウトした人や、私のように身体が動きづらくなって普通の仕事の多くができなくなってしまった人でも挑戦できるという意味では、現在の経済システムのセーフティネットにもなっている。私こそこれに挑戦して、その経過をレポートせねばならないかもしれない。

大江健三郎が亡くなったという話から随分飛躍してしまったが、現在の社会システムを疑い、大量消費社会の崩壊後を考えるという意味では、大江健三郎から始まった話として、全く筋が通ってないわけでもないかもしれない。

実は大江健三郎の作品は初期の数作しか読んだことがない。
「懐かしい年への手紙」など、本箱にあった気がするが読んでいない。

実は私が12年前からやっている火鉢クラブの火鉢カフェで以前、定番で出していた原木椎茸は内子町の山奥でとれたものだ。初めて火鉢カフェをやるにあたり、仕入れる椎茸の産地を訪れようと、内子町を訪ねた。内子町には駅に近い道の駅からりもあるが、より美味しく立派な原木椎茸を仕入れるために山の奥のほうにある道の駅小田の郷せせらぎを訪ねた。これは、大江健三郎が生まれた大瀬地区からもう少し山の方へ入ったところで、途中、乗ったバスの車内放送が大江健三郎の生家の場所を伝えていたのを記憶している。

大江の小説にはあの大瀬のことがどのように描かれているのか、読んでみなければなあ、、、。

また長くなった。しかし、推敲する体力は今はもったいない。
あしからず。

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