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ぺらぺら(薄っぺらいもの・02)

 今回は「薄っぺらいもの・01」の続きです。


 いま私は薄い液晶の画面に表示されている自分の書いた文字を見つめています。

 と書きましたが、半分は正確ではない気がします。

「薄い」は「ある程度(そこそこ)厚みのある」という感じで、「自分の書いた」は「自分がキーボードのキーを叩いて入力した」であり、「文字」は利用しているサイトが用意した活字といういうべきでしょう。

 細かいことを言っていますが、これは「薄っぺらいもの」というタイトルで記事を書いているいじょう、大切なことだと思います。

 お察しのとおり、私にはレトリックで話を誤魔化すという悪い癖があるのです。

 いまの文がまさにレトリックを弄したものであり、ようするに嘘つきなのです。嘘つきが言うのですから間違いありません(いまのもレトリックです)。

 とはいうものの、レトリックなしに言葉は話せないし、書けないという事実があります。言葉言辞レトリック修辞・美辞・巧言なのです。

 舌先三寸。

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 本題に入ります。

 紙にボールペンや鉛筆で書かれた文字も、印刷された活字も、液晶画面上に表示された活字も、視覚的に厚みも深さも感じられない、つまり立体感に欠ける文字であり活字であるはずです。

 立体ではないとすれば、手書き文字や印刷された活字や液晶画面上の活字は平面的な存在だと言えるでしょう。

 平面的な存在とは、日頃使っている言葉で言うと、「ぺらぺらなもの」とか「薄っぺらいもの」となります。こっちのほうがしっくりします。

 私は漢語よりも和語が好きです。和語の中でも擬態語や擬声語や擬音語を好みます(なんて言いながら思いきり漢語を使いましたが)

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 ぺらぺらした紙にのっかったり、引っ掻いたり(書くと掻くは同源だそうです)、染みついたり、にじんだり、写ったり、こびりついたり、貼りついている文字や活字。

 さほど厚くもなさそうな液晶画面にのっかったり、映っていたり、浮いているように、またはにじんでいるように見える文字や活字。

 こうした文字や活字は、ぺらぺらとか薄っぺらいと言ってかまわない気がします。

「言ってかまわない気がする」のですから、定義しているのではありません。素人が勝手に決めているのです。

 ですので、ここでの話は半分冗談として聞いてください。

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 冗談半分の乗りでさらに言いますと、言葉つながりの言葉や事物や現象はぺらぺらだらけではないでしょうか。

 真面目な話なのですが、私は言葉を広く取っています。話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情と身振りも言葉としてとらえて生活しています。

 私は重度の中途難聴者なのですが、そうした事情もこの言語観に影響していると思います。

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 そんなわけで、話し言葉と書き言葉と表情と身振りに分けて、そのぺらぺらぶりについて話を進めていきます。

 その前に、まず言葉という言葉からいきます。

・言葉・言の葉

「言の葉」という言い方の「葉」ですが、これは私には薄い面であり膜、つまりぺらぺらに感じられます。

 葉、端、刃、羽――。この四文字に「は」という同音のつながりである韻だけでなく、イメージの韻も私は感じないではいられません。

 つまり、端っこ(端っこですから狭いし小さいし薄いはずです)、鋼を薄くのばした刃、薄く軽い羽という感じ。これらの文字を見ていると形も似ている気がしますが、これは人それぞれでしょう。

 学問的な関連については知りません。あくまでも個人的な印象でありイメージの連想です。

 さらに「言の葉」は、ヨーロッパの諸「言語」における「舌」に相当する語の「ぺらぺら」感とイメージの韻を踏んでいる感じがします。英語で言えば、 language と tongue です。これは語源でつながっています。

「舌先三寸」や「あの人、英語がペラペラなんだって」という言い回しは言えていると思います。

 以上のことからして、やっぱり「言葉・言の葉・言語」はぺらぺらだという感を強くしました。

・話し言葉(音声)

 そもそも、言葉を発するときに用いる舌が、ぺらぺら。発したとたんにどこかに消えてしまう声の存在感も、いかにもはかなげで、ぺらぺら。

 声は空気の振動と言われても、目に見えないし片っ端から消えていく(存在感が希薄)みたいで、ぺらぺら。

 空気の振動をとらえているという鼓膜も図や写真で見ると文字どおりに膜っぽくって、ぺらぺら。

・書き言葉(手書き文字・活字)

 文字を書くさいに使う手のひら(掌)が、ぺらぺら。

 手を使って筆やペンや鉛筆で書く文字も、しょせん墨やインクの染みであったり、黒鉛と粘土との粉末の混合物を固めたものが薄く剥がれた粉がこびりついたものであり、ぺらぺら。

 印刷術によって活字が薄い紙にインクの染みとして写った活字も、ぺらぺら。

 薄い液晶画面に映った光学的な活字も、ぺらぺら。 

・表情と身振り(視覚言語)

 顔の表面にあるぺらぺらした薄い皮膚を舞台とした動きである表情は、薄い角膜や水晶体(レンズ)を通って、ぺらぺらした網膜に映し出され、たちまち消えて、ぺらぺら。 

 身振りを構成する動きを演出する骨や筋肉を包み込む、ぺらぺらした薄い皮膚反射した像として、身振りは、薄い角膜や水晶体(レンズ)を通って、ぺらぺらした網膜に映し出され、たちまち消えて、ぺらぺら。

 ところで、ここまでを読んでお気づきになったと思いますが、話し言葉と書き言葉と表情と身振りのうち、書き言葉である文字だけが消えないのです(消さないかぎりですけど)。

 音声も表情も身振りも、発したとたんにつぎつぎと消えていきます。発せられた相手は、その消えていくものを必死で追いかけなければなりません。追いかけっこなのです。

 不思議だと思いませんか? 私は言葉の中で文字がいちばん気になります。だから、文字についての記事ばかり書いているのです。

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 以上、ぺらぺらぺらぺらと、めちゃくちゃこじつけて、ごめんなさい。

 こんなことを書いている私も、ぺらぺら。さらに言うなら、慣れない言葉を使った作文で、へらへらでへろへろ。

 べろんべろんでないだけ、まし。

 では、まとめます。

・ぺらぺらと親和性のある属性やイメージ

 ・視覚的な要素:写・映、透・通。
 
・聴覚的な要素:振・震、響・鳴。
 
・視覚と聴覚に共通する要素:伝。

 軽薄短小という言い方がありますが、軽くて薄くて短くて小さいものは、効率よく伝えることができるのではないでしょうか。

 だから、身の回りには、人の作った薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものがいっぱいあるし、世界は薄っぺっらいものに満ちているのでしょう。

 空間的にも時間的にも、そして時空を超えて「伝えたい」=「(相手と)つながりたい」――ヒトのこの欲求や欲望のあらわれが「ぺらぺら」という形態であり、その欲望や欲求の具現化された「器官=象徴」が舌だという気がします。舌は性器に匹敵する重要な「器官=象徴」ではないでしょうか。

 ほら、ひれ羽・翅はねもぺらぺらじゃないですか。ひれもはねもないヒトにはぺらぺらした舌があります。

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 人類は舌先三寸で、ここまでやって来たのです。これはすごいし素晴らしいし恐ろしいことだと思います。

 ぺらぺらして薄っぺらいのに、舌はなかなかしたたかで――「したたか」は「強か」とか「健か」とも書けるのですね、「身体強健」の「強健」という感じ――頼もしい存在です。

「舌」を辞書で引いてみてください。興味深いことわざや成句があります。また世界各地に舌を用いたさまざまな合図や身振り言語があるようです。

「舌を出す」だけでも、日本で見かけるあかんべや失敗したとき以外にも、いろいろありそうです。ハカ、アインシュタイン、あとどこかの国か地域での挨拶でもあったような……。

 舌の出てくる昔話や説話や俗説も多いですね。たとえば、舌を切るとか抜くとか。それだけ、意味性と象徴性が高い器官だと言えそうです。

 舌を題材にして記事が何本も書けるでしょう。同じく意味性と象徴性の高い性器よりは書きやすいと思います。

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 話は変わりますが、サイモンとガーファンクルによる、Bridge over Troubled Water (明日に架ける橋)では、1981年にニューヨークのセントラルパークで行われたコンサート(Live at Central Park, New York, NY - September 19, 1981)の動画がいちばん好きです。

 以下の動画で字幕の設定をオンにすれば、文字、音声、表情、身振りのぜんぶを見て聞いて楽しむことができます。

 とくに注目したいのがアート・ガーファンクルの舌です。彼が大きく口を開けたときに見える舌の動きを見ていると「言の葉・language ・tongue」という言葉とそのイメージ(像)が動いているのを感じます。

 写・映、透・通。振・震、響・鳴。伝。――「まとめ」で述べたこうした要素がぜんぶ、この動画にはあります。

 何度見たか分かりません。次回は、この動画について書きたいです。

(つづく)

#熟成下書き #舌 #言の葉 #言葉 #言語 #話し言葉 #書き言葉 #文字 #活字 #表情 #身振り #サイモンとガーファンクル

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